青い果実の実る頃には

komei115.exblog.jp

項目に分けて日々思ったこと、書きたいことを自由に書いてます。意見、批判するコメントは大歓迎です。個人的な問い合わせはこちらまで。koumeipart115@yahoo.co.jp

ブログトップ

映画から学ぶもの ~彼女について私が知っている二・三の事柄 ~

ネタばれ注意!

072.gif072.gif072.gif072.gif072.gif  4.9/5

b0215567_2162831.jpg


これが映画の魅力であり、醍醐味であり、可能性であるのだろうか。ゴダールの魅力に惹きつけられて止まない。



中流階級の妻の売春を、ドキュメンタリータッチで描いたフランスの巨匠ジャン=リュック・ゴダールの1966年度製作の作品。

あらすじ
とある中流階級の男の妻には、子どもが二人いて幸せそうだが、女は平然と子どもを託児所に預けて売春を行う。夫もお金のためにその行為を認めている。

一風変わったストーリーの構図だ。しかし、ここから更に変になっていく。
物語の流れがまるで無視されたかのように、登場人物たちが脈絡のない思い思いの言葉を吐露しだす。そこにあるはずの物語から登場人物が飛び出しては勝手に何か別のことをし始めるようで、どこかズレが生じている錯覚を受ける。それはドキュメンタリであって、映像という枠組みの物語の中で登場人物が自分を、世界を説明していく感覚に近い。
しかしながら、彼らは言語に頼ることで、何らかの不安から開放されたいのだろうか。
よくわからないまま、退屈な物語は幕を閉じる。物語から予想していたモティーフは姿を見せず、シークェンスはあちらこちらへと飛び交い、言葉、風景、人物全てがバラバラのまま、芸術性、何かしらメタファーだけを多く残して終わる。

これはまさに以前readingで述べた「β読み」をしないと何も見えてこない作品であろう。
是非とも観て欲しい作品だ。



ー追記ー

観てきたイメージを整理し、全体から、タイトルから、表紙から、いろんな視点で考えてみた。
ここから先は私個人の勝手な妄想に過ぎない。したがって、若者の戯言として聞き流してもらって構わない。


観終わってみて、何だか絵画、それもピカソの絵画を思い起こしてしまった。
理由は、全体として残る芸術性と、クレジットが始めにも終わりにも一切描かれていなかったという違和感。普通の映画ならまずありえないでしょ。
そうすると何となくだが、逆に作品自体が訴えかける映像化、巨大化したクレジットのようにも見えてこなくもない。徹底された作品主義に映る。

それを抑えたうえで、今度は表紙に注目してみる。日本版の表紙では
b0215567_2162824.jpg

だったためわからなかったが、先に表示した欧州版のコラージュの表紙で、やはり何となくピカソっぽいかなと感じ、調べたところキュビズム(いや、シュルレアリスムの方か)とシンパシーを感じた。
そこでピンときたのが、ゴダール自身もシュルレアリスム(超現実主義)にのっとり、映像という枠の中で映る「現実を排した世界(=パリ。以降の文は全てパリと記す)」と向き合ったのではないかという予想だ。
作られたのが1966年であり、丁度ベトナム戦争も6年目を迎え、アメリカは泥沼に足が浸かった時代だ(実際に作中にもベトコンの映像が出てくる)。フランス第一主義のドゴール派政権が台頭し、1964年の中華人民共和国の承認によるアメリカとの対立。1966年にはNATOを脱退し、自立への歩みを進める。資本主義の到来の中、「国家」としての自主性が構築されていった。
作中、男は仕事で政治を語り、女性は台所で文化を主張するが、それは当時の左派とノンポリを表したものだと思う。
1966年の閉塞した「現実」という空気が漂う世界の中、ナチスの支配に対し「ゲルニカ」を描いたピカソのように、ゴダールは今作品を撮ったことで、「現実のパリ」に対する哀悼と挑戦の意を込めたのではないだろうか(そしてフランスではその2年後に日本をも巻き込んだ世界学生反乱の導火線とも言える五月革命が起きるわけだが)。
そうすると、物語の大きな要素である売春が意味することも、「女性の社会におけるシステムと存在意義(当時、女性はベッドの上で労働する)」から、「パリ社会におけるシステムと存在意義」と変わってくる。女性の売春が普遍のものであると同時に、パリにも売春と同じような道徳に反するシステムが普遍的に存在すると言えるのだ。

さらに、内容の方に目を向けてみたい。
度々映される商品やモノ、特に建設されゆく巨大ビル、大型クレーンは映像世界において(いや、もはや広告・商品溢れる現実世界においても)パリの「現実」ではなくパリの「イメージ」の塊である。そのイメージの塊をパノラマ映像に収め、その中にぽつねんと佇む女性を映したショットは、寧ろ巨大ビルまでもが女性的に映って見える(ここで更に付け加えておくと、「イメージ」という言葉はフランス語において女性名詞なのだ)。
ここから、映しだされるパリが女性というイメージであることがわかり、先に述べた売春の話ともリンクしてくる。
内容からもう一つ。先にも述べたが、女には子どもが二人いる。一人は知的でませていて、自分の世界を構築している少年で、もう一人はぐずって泣いてばかりいる少女だ。
少年は学校へ(実際のシーンはないが、話の流れから)、少女は簡素で奥行きもない索漠とした託児所に預けられ泣いている。その間母は知らない男と売春する。
もし、母がパリであるならば、その子ども達がパリ市民なのではないだろうか。当時の子どもたち(パリ市民)は売春に及ぶ母(パリ)が存在する中で、知らないように、見ないように務めてませるか、ただ母の愛を求めて泣き叫ぶことしかできなかった。

以上の点から、タイトルについても考えてみたい。もし、予想が当たっているならば「彼女について私が知っている二・三の事柄」というタイトルは「パリについて市民が知っている二・三の事柄(父の妻であるという正当システムとして機能するパリ・売春的な反道徳システムが普遍に存在するパリ・そのどちらが本当で正解なのかわからないパリ)」とでも言えようか。

もし、その構図のゴダールが注目して映像に収めていたとしたら、なるほど、最高傑作である。

さて、最後の話。
ここまでくれば、なぜ登場人物達が物語の進行と同時に関係ない言葉を述べていたのかも多少なりと理解できる。
言語は人の「思考」から出るイメージである(ちなみに、よくよく観てみると作中で物語と関係ないことを言うのは女だけだった。これは言語が思考のイメージだけに女性的であるからそうしたのだろうか。実際に女性の言語能力は男性より高いし・・・)。したがって、登場人物達は常に「思考」から出た言葉を提示することによって「現実」と対極にある「イメージ」を映像化させ、不確かな現実、すなわち「幻想」を生み出すことに成功したのだ。映像の全てが幻想を映したのもだとすると、私が初めに抱いた「言葉と風景と人物にズレがある非現実的な感覚」も、あながち間違ってはいないことがわかる。
この幻想を描くことによって、これは私たちの生きる現実世界でも同じことが言えるとゴダールは伝えたいのだと思う。
私たちの見ている世界は、言葉や物などのイメージが飛び交う限り、所詮はドキュメンタリーのような幻想にしか過ぎないと。その中で生きていくためには、他人の生み出す幻想の連鎖を何度も読み解いていくよりも、自分自身の思考に任せきる方がより確実で簡単だと(そうすると、こんな風に言語を尽くして必死に語る私よりも、寡黙に行動する人の方がよっぽどシンプルでいて、賢く、尊いのだ 笑)。【Speech is silver, silence is gold. 】「言わぬは言うにまさる 」とはよく言ったものだ。





長い思考の旅に出た。妄想が更なる妄想を生み、話は飛び飛びで、脈絡のない駄文になってしまった。
決して正解でないことは分かるが、何が正解なのかはわからない。だが、勝手ながらに一人で想像し、閃いては興奮し、しっくりくる場所に落ち着いて満足している。
暫くおいてみて、そしてもう一度見てみようと思う。また何か違った発見ができるかもしれない。
一つの映画でここまで考えさせられるなんて。とても道程は険しいが、その分眺望できた時の感動は大きく、観た甲斐があるというもので、ゴダールの魅力は自分の中でますます輝きを放っている。全作品を観てみたい。そうやって陶酔していきそうな自分が恐い(笑)。
[PR]
by komei115 | 2012-04-07 02:18 | Movie