青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~紀子の食卓~

ネタばれ注意!

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自分を剥き出して、曝け出して、問いただすのだ。私は「家族」と関係しているか?私は「あなた」と関係しているか?私は「私」と関係しているか?



「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」「ヒミズ」など海外でも高い評価を得ている園子温の衝撃作「自殺サークル」の続編。本作は、2002年の「自殺サークル」公開後に監督自身が書き下ろした「自殺サークル完全版」を基に描く見たことのないホームドラマで2005年に公開された。
「自分とは一体何者か?」「本当の自分とは?」「生きるって何だ?」。思春期の少女が答えを求め、レンタル家族にはまる一方、その行方を追う父親の行動を通して家族のあり方やと問いかける。159分という尺の長さも全く感じさせない力強さで最後まで突き進む。人間の本質を剥き出せた本作は、第40回カルロヴィヴァリ国際映画祭で日本人初の特別賞賛賞と国際シネクラブ連盟ドン・キホーテ賞のW受賞を果たした。

あらすじ
田舎での暮らし。その中での家族との関係や自身の現状に違和感を感じていた女子高生の紀子は、「廃墟クラブ」というサイトにのめり込んでいく。「東京には私の知らない何かがきっとある」。そう信じてある晩突然家出し、東京でサイトの主宰者と出会った彼女はミツコと名乗った。
その後、新宿で女子高生の集団自殺が行われた。そこに紀子の手がかりを見出した妹のユカも家出した。娘二人の疾走に加え妻が自殺し、残された父は娘たちの消息を追う・・・。


今まで「愛のむきだし」「ちゃんと伝える」「ヒミズ」と観てきて、園子温監督に興味を持ちフィルモグラフィーをたどって観た作品である。それにもかかわらず、私はこの作品が一番面白く感じた。
吹石一恵のおどおどとした表情が役柄に合っていて(制服姿は似合っていなかったが笑)、吉高由里子がこの作品に出ていたというのも驚きだ。つい先日「僕らがいた」という吉高由里子主演の映画の広告を見たが、7年前も今とほとんど変わらない姿にびっくりした。演技の方も16歳にしてはとても上手く、ラストの彼女がとった選択には女の子の強さといたいけな若さを見てとれた。

本作品は恐ろしいホームドラマだ。フィクション的ホラーショーの要素ももちろんあるのだが、それよりもフィクションの中に現実の可能性が秘められていて、じわじわと自分自身の関係性も不確かになりそうで恐ろしかった。
なぜだろう、観ていて松田勇作主演の「家族ゲーム」を思い出していた。家族関係が一種のゲームになり下がったとき、家族は本来の機能を失い、一人ひとりが作り出す幻想に飲み込まれてしまう。まさに作中に出てくる虚像の「レンタル家族」。その恐ろしさがあった。
家族との関係の中で自分がどういう存在か。果たして家族の中で自分を演じているのか、素の自分でいれているのか。家族の絆っていうけど家族って何なんだ。血が繋がっているから、物覚えがついたころから一緒にいるから家族なのか。
こんなことを紀子は考えるのだが、これは私たちだれもが一度は抱える疑問ではないだろうか。
彼女は分らない。自分が何者なのか。あまりにも近すぎて、何も見えてこない。だから、彼女はサイトを通じて外の世界を知り、その魅力に取りつかれて家を出る。家を飛び出すのは自分から飛び出すのと同じだろう。そして、外の世界でいろんな家族の形態を見て、触れる。その時、喜んだり失望したりを繰り返しながら「自分」になっていくと同時に大切なモノに気付くことができれば理想的なのだが、彼女は逆に「自分」を見失い、レンタル家族という名の中身のない演技するだけの傀儡の一人になっていく。それは一種の自殺を意味する。これが決してフィクションではないからゾッとする。きっと誰しもの心の中に偽りでも良いからだれかと理想の関係性を持ちたいという欲があるだろう。現に今もネットを通じ、「何か」を求めて家出したり、自殺したりする少年少女は少なくない。むしろ増えているのではないだろうか。園監督の先見性は高かった。

ここで、家族について考えてみたい。
もしかしたら、家族とは何らかの作物なのかもしれない。厚い皮に覆われていて、その中の実はどんな形、味、匂い、感触なのかも「剥いて」みないことにはわからない。立派な皮をしていて一見幸せそうな家族も、一度誰かが「剥いて」しまえば玉ねぎのように皮だけで何も残らないこともある。その代表がこの紀子の家族だ。紀子は、自分で皮を「剥いた」。自分には中身のない、真っ裸だと紀子は思う。それがきっかけとなってユカも皮を「剥こう」とする。お互い何でも知っているようで、何も知らなかった家族は崩壊していく・・・。
では剥いたときに何か実となるものが残っている家族って一体何なのか。思うに、遠くにいてもその人のことを想えるようになれば、その人はもう自分にとって家族なのだ。それは、血の繋がりや一緒に暮らした年数の問題ではない。要するに、想える人になれるかどうかが大事なのだ。それが繋がることであり、関係を持つということである。
園監督は家族の関係性を「食卓」で表した。レンタル家族を雇う人たちは理想の繋がりを食卓に求めた。食は家族形成における重要なプロセスの一つだ。家の中で食卓を囲み、同じ釜の飯を食べ、同じ皿に盛られた料理を突く。それは家族でしかできないことだ。家族にしかできないことをできない家族もこの世には数多くある。食をともに摂れない家族は偽りでしかない。

何も考えず皮に覆われているのが幸せか、剥いた方が幸せか。何がその家族、その人にとって幸せなのかはわからない。剥けば必ず幸せがあるというわけではない。二度と関係が修復できないこともある。
しかし、関係性を持つために家族を、自分を剥き出しにするという行為を私は評価したい。向き合って、ぶつかって、曝け出し合うのは勇気とエネルギーがいるが、家族の中の誰かが剥きださなければ真に関係性を得るチャンスはないだろう。
園監督もこれを機に「愛のむきだし」や「ちゃんと伝える」といった作品に転化していったのだと思いたい。暴力的な映像は少し見苦しい部分もあるが、それも踏まえて提示する可能性に賛辞を送りたい。今後とも園監督からは目が離せない。
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by komei115 | 2012-04-22 23:26 | Movie