青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~Polytechnique~

ネタばれ注意!

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2009年度公開作品(日本未公開。ネット動画による視聴可)。

これは決して他人事ではない。私たちは、突然降り注がれる他人の無差別な暴力からどのように身を守ればいいのか。そして、被害にあったとき、どのように心を鎮めればよいのだろうか





2011年第83回米国アカデミー賞 外国語映画賞にもノミネートされた「灼熱の魂」(ブログ内にて記述済み)のDenis Villeneuve(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)監督による、1989年12月にモントリオール理工科大学内で起きた銃乱射事件を題材とした作品。カナダのアカデミー賞といわれているジニー賞で歴代最多9部門受賞した。

あらすじ
自宅で手紙を書いている若い男。書かれてある内容は女性の社会進出、フェミニズムへの敵意、政治的な理由による自殺をほのめかすものであり、遺書と取れる。その後、男性は一丁のライフルをビニールにくるんで、ある大学へ向かう。そして講義中の教室へ乱入し、彼がとった行動とは・・・。


事件の概要だが、ターゲットは女子学生、死亡者は14人、負傷者14人。犯人は犯行後自殺という最悪の結末である。
さて、この映画を見たときにある映画が私の脳裏に浮かんだ。
「エレファント」という映画だ。

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2003年公開作品(レンタル可)。「ミルク」、「永遠の僕たち」(ブログ内にて記述済み)のガス・ヴァン・サント監督による1999年4月20日にコロラド州で起きた、世界を震撼させた惨劇・コロンバイン高校銃乱射事件をテーマとした作品。2003年第56回カンヌ国際映画祭最高賞のパルム・ドール、監督賞を史上初めて同時受賞。「キスも知らない子どもでも、銃の撃ち方は知っている」というキャッチコピーで有名。

高校と大学、そして思想犯の犯行といじめられっ子の犯行とでは事件との向き合い方がちがってくるかもしれないが、共通しているのは2作品とも多くを語っていないことだ。
モントリオール理工科大学の事件の犯人は“フランス系カナダ人の母親とアルジェリア人の父親の間に生まれ、子供の頃から父親に肉体的な虐待を受けるとともに、徹底した女性蔑視の思想を植え付けられた。”とWikiでは書かれている。
しかし、作中では犯罪心理に大きく影響していると思われている犯人の生い立ちには一切触れておらず、監督自身の主観もそこには一切触れられていない。また、事件当時、警察の対応力を非難する声も上がっていたようだが、これもやはり作中では触れていない。
エンジニアを目指す女子学生ヴァレリエと、その友人の男子学生ジェーンの二人の被害者の視点から事件は進展していく。
そして、事件そのものを忠実に描くだけではなく、被害者が後遺症に悩まされる事件後の姿も重点をおいて映されている。ジェーンは無傷だったが、良心の呵責のためか事件後自殺を図る。一方で、数年後もなお心的外傷に悩まされ、それでも日々を生きようとするヴァレリエの姿も描かれている。ここに、監督の真意があるだろう。

淡々と犯行は起こり、進行していく。犯人は無表情な顔で引き金を引き、面白いように学生が血飛沫をあげて殺されていく(かなり不謹慎な言い方だが)。事件の真相を知っていても、強烈に後味の悪い印象を残すエンディングである。
物語として語れないだけに、それは「バッドエンド」の比ではない。
理解できないと人間は不安になる。だからこそ、事件だけでなく周りのいろんな情報も含めて徹底的に調べ上げ、分析する。「物語」を作って語ることで安心する。
マスメディア(特にワイドショーなど)はこぞって、やれ犯人の生い立ちがどうだとか、親がどうだとか、社会の警備システムがどうだとかを追い求め、コメンテーターが自己満足な理想論を語り出す。それは事件を食い物のように扱い、美食家気取りの連中があーだこーだと評価しているようにしか見えないが、視聴者としては一つの「物語」として処理した方が見やすいということもあるのかもしれない(だからこそ、ワイドショーは廃れないのだろう)。

しかし、「物語」として処理する前に、私たちが大前提として思慮しなければならないことは、「突然降りかかる暴力にどう対応すればいいか」であることに尽きる。
「無差別な暴力は何の前触れもなく起こる。そして、巻き込まれたら、自分の行動一つで全てが決まる。己が死ぬか、他人が死ぬか。はたまた怪我か、目撃だけで済むか」。
これが現実であり、事件そのものの真実であるのだ。他に語ることは何もない。
私も含め、刺されたことも、撃たれたこともない人がほとんどだろう。一般人で「ある」という人は皆無といってよい。そんな暴力的危険を感じたことすらない私たちが、突然銃や刃物を向けられてもどうしてよいかわからないのが普通だろう。
玩具か何かか。
タチの悪い悪戯か。
そうしているうちに撃たれて初めて気づくか、もしくは気づくこともなく息絶えるかのどちらかだ。
そして、被害にあった人を目撃して、生に流れる血を見て初めて日常ではないことに気付き、それでも信じられずに唖然としているのか、死に物狂いで逃げ惑うのか、泣き叫ぶのか・・・。いろいろあるだろうが、犯人を目の前に立ち向かう者、誰かを守る者は現実的に考えてそう多くはいないだろう。
しかし、何もできなくて当然だ。訓練や経験を積んでいるわけではないのだから。
じゃあ、何が起こっても大丈夫なように専門の警察や警備を強化し、全てを委ねれば良いのか。それも、完璧とは言えないだろうし、何より公共施設、特に大学などの学問という常に門徒に対して開かれていなければならない機関では警備体制をどこまで強化すべきかというディレンマがあろう。
一番いいのは全世界の軍事産業を撤廃し、武器を全て回収することだが、限りなく非現実的で、また、何も凶器になるのは銃や刃物だけではない。
私たちが身を守る手段として挙げられるのは、普段からの「意識」以外にないと思う。何も疑心暗鬼になる必要はないが、普段から死と隣り合わせの感覚を抱いておくことに越したことはない。いざという時に、腰を抜かすことなく、スムーズに適した行動に移せるためにも危機察知、危険回避、自己防衛術、応急処置といった類の知識、能力は予め研いでおきたい。

映画は、犯行が起こるその日からすでに日常ではないことをうまく表現している。全ての映像で用いられているモノクロ映像は非日常の世界そのものだ。それは事件後もずっと続いていく。
現実でも、モノクロ映像に切り替わって危機を知らせてくれたらありがたいのだが、残念ながらいつ非日常が私たちに迫ってくるかはわからない。朝起きた時なのかもしれないし、交通機関に乗った時かもしれない。
世界が非日常になることを止めることはできないが、その世界に陥った時に、受け入れて行動できる、心を鎮められるようになるのが「生きる力」であろう。そしてまた、非日常に陥った人の痛みを知り、支えてあげることも人ならではの愛の与え方ではないだろうか。
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by komei115 | 2012-05-05 21:29 | Movie