青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~Sunny サニー 永遠の仲間たち~ まとめ

前回に引き続いて「Sunnyサニー 永遠の仲間たち」について考察していきたい。

はじめに、この映画を見るにあたって見落としてはならないのが女性の物語ということと韓国の1986年という時代だ。
まずは前者。なぜ、女性なのか。本作では男性も出てくるが、女性の目を通した男性でしか描かれていない。例えば、25年ぶりに再会するナミの初恋の相手は、昔の彼そっくりの息子がいる良きおじさんでしかないのだ。その変わり様に私たち観客もナミの視点でもって複雑な表情を浮かべることしかできない。
監督は「人生のアイロニーを描きたかった」と話し、その中で自身の母の過去の写真にヒントを得たと語っているが、それ以上のことがある気がしてならない。
ナミの兄が学生運動の意義を熱く語っているそばで、母や祖母が「くだらんことやる前に働け」「お前みたいなやつが悪い女に引っかかるんだ」と罵倒するシーンがあるが、本当にそうだなと思ってしまう。ロマンを掲げ、大義名分並べて悦に浸っていても食ってはいけない。それよりも稼げと尻を叩く女性がよっぽど大人で正しい。
また、機動隊と運動を起こす学生が躍起になって市内で衝突するシーンがあるが、女子高生グループのコミカルな抗争の背景でしかない。それだけに大人の男の争いが少女たち子どもの喧嘩と同レベルであり、勇ましさの欠片もないというなんともシニカルな演出がなされていた。
こういったことから何が伺えるか。
女性の生活というのは国の文化、時代の風潮そのものを表しているといっても過言ではない。常に弱き立場におかれながらも懸命にしたたかに生きてきた女性は国の本質であり、社会のリアルなのだ。監督はきっと、古き良き韓国とそこからの時代の移り変わりを表現するために女性の物語をもとに過去と現在を対比させたのだと汲み取りたい。

それを念頭に置いた上で後者について考えてみる。1986年という時代の韓国社会はどうだったか。パク・チョンヒ大統領が暗殺され、独裁統治が終わりを告げると思われた「ソウルの春」で幕を開けた1980年代。大統領はチョン・ドゥファンに代わり1988年のソウルオリンピック誘致成功、45年以来続いた夜間通行禁止令の解除、「自律化」の名の下での中高制服の自由化を打ち出すなど、「新しい時代の幕開け」と思われた。その裏の実質の社会生活では制約が多く、学生運動、労働運動は徹底的に弾圧されていた。アメリカナイズドされ、経済成長は「漢江(ハンガン)の奇跡」と言われるほどの急成長。同時に廃棄ガスのスモッグと騒音と渋滞と喧騒に包まれたソウル。
これが「サニー」がいた時代なのだ。学生運動に浸かりきるナミの兄。それを罵る家族。方言を馬鹿にされ、親を呪う田舎娘。女子高に通う女子の実態。縄張り争いに勤しむ不良。小洒落たクラブに来る若者たち。
「昨日より今日。今日より明日はきっと良い」。経済発展の中に何か大きな物語りがあり、時代が変わっていくと信じていた。その中で少女たちは夢を見て、流行に乗り、80’Sポップミュージックに乗り、大人の真似事や危険な遊びに手を出していく。
大人に対する「反抗」であり、社会の酸いも甘いも知る通過儀礼の真っ只中に彼女たちはいた。
そうしてみると、1986年の「サニー」がいた時代の風景に違和感を感じる。「あれ、これってまるっきり1968年前後の日本と同じじゃん」。1964年の東京オリンピックに沸き、1970年に控える大阪万博という経済成長に浮かれる中、流行に乗り、ビートルズを聴き、安保闘争にひた走った全共闘時代の学生たち。
そうなのだ。日本と韓国、何も異なる事なんてありはしなかったのだ。そりゃ韓国では軍隊が機能してたり、政治のシステムや制度、文化は多少違えど、同じ道を歩んできたのだ。どこを見ても日本と大差ない。
このことに親近感を覚え、さらに現代の2011年の方を見ても生活水準の移り変わりですら日本と同じに見えてくる。これまで学生運動の中心にいたものは企業の重役に出世し、汚職まがいのことをやっている。ここらへんも日本と同じだ。
「同じ」という言葉に勇気づけられる。近年の韓流ブームはさらに熱を帯び、すでに日本では常識的になりつつある今日だが、今こそアジアの中で互いに手を取っていくべきなのではないだろうか。かつてのサンフランシスコ体制下の「アメリカ」というに依存する上で得られる自由(古くさい話だが、それでも今なお引きずっているところはあるはずだ)ではなく、仲間と勝ち取る自由のほうがいいのではないか。
互いに理解し合うには、まずは知らなければならない。そうすると、歴史や文化を学ぶにあたって、これまでミーハーだと思っていたが、解り合うために音楽や映画という芸能の文化から入っていくことも実はとても重要なことだということがわかる。

さて、これまで国(女性)と時代の変遷という視点で見てきたが、また、親子という不変の関係を忘れてはならない。ナミには娘がいて、娘の言動に手を焼いている。一方で娘は母のおせっかいをうざったく思う。この関係、ナミが高校生の時も同じだった。時代は変われど、今も昔も親子関係の根本は変らないのだ。ナミは娘との関係に不安を抱くも、昔の仲間に会うことで過去の自分と今の娘を照らし合わしていく。
そして、映画の見せ場の一つであるナミが仲間とともに娘の復讐をするシーン。これは「暴力」であり、あまりいただけないのだが、痛快で、ナミ含めたサニーのメンバーにとったら重要な「儀式」の一つだったのだ。それを果たすことで今の状況を打破するエネルギーと自己肯定による自身の活性化が生まれ、メンバーは絆が復活し、ナミ自身は娘に寄り添えるという成長があり、人はいくつになっても成長できることを呈示してる。こういった時代の変容の中、仲間や家族など変わらず培っていける関係を優しく描けているのは、監督が万人から受け入れられる大きな理由の一つとなろう。

子どもの頃に抱いた夢や世界観、無限に広がる可能性は崩れ、アイロニーだけが渦巻く閉塞的な現実社会の日常に生きる私たちが豊かに生きるためには大切な人と物語を築く必要がある。それも小さな物語だ。
政治や国の問題をちらちら見せつつもコミカルなパワーで吹き飛ばした本作のように、歌って、踊って、恋をして。仲間とぶつかり合って笑い合う。1960年代に形成された大きな集団の物語が失われたまま、ずるずるときてしまった今日、そんな単純で小さな個々の物語を形成していくことが大事ではないだろうか。
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by komei115 | 2012-06-16 23:57 | Movie