青い果実の実る頃には

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読書から学ぶもの ~斜陽~

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恋と革命とに生きる一人の女が、新しい人間としての出発を模索した古き美しさの挽歌




恥ずかしながら、私が太宰の魅力を知り、太宰作品に陶酔するようになったのはほんの3,4年前のことである。初めて読んだ(小、中、高で触れていると思うが、当時の自分にとって国語の「問題」でしかなかった)のは、「人間失格」だ。ここまでに自らの体験を主観的真実としてギリギリまで告白している本作は、私に文学の面白さや美しさに気付かせてくれたのと同時に、疎外感や自閉的世界を持った人間の、現実の人間社会に対する絶望の中に、魂の底から人間に対する求愛、求信の叫びや訴えがヒシヒシと伝わり、共感し感涙するほどの感動を与えてくれた。

それからというもの、私は国内外問わず数々の近代文学を好んで読み始めるようになるのだが、同時に太宰作品は「晩年」、「ヴィヨンの妻」、「津軽」、「御伽草子」、「惜別」、「走れメロス」、「駆込み訴え」、「女生徒」、「富嶽百景」、「満願」、「右大臣実朝」、「きりぎりす」そして「グッドバイ」など色んな作品に手をつけてきた。しかし、カフカやヘミングウェイ、フィッツジェラルドやサリンジャーなどの海外作品に押され、国内では漱石や藤村、芥川を好むようになり、太宰は私の中で段々とキザでデカダンなイメージが膨らみ、三島と同等に「心を病ませる読みづらいモノ」へと次第になっていく。

そんな中、太宰文学における集大成ともいえる「斜陽」を読む中で改めて太宰の魅力に気付かされた。
本作は、ネタをばらす・ばらさない以前に「走れメロス」や「人間失格」と同等、あるいはそれ以上にほとんど周知のことであるかと思う。
日本で最後の貴婦人である母と、恋と革命のために美しい生き方を模索するかず子、そして太宰本人でもあろう麻薬中毒で破滅へと落ちていく直治と、アウトサイダーでニヒリズムという戦後の己のカリカチュアである流行作家上原。とある没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためには美しく気高い滅亡が必要なのだという心情を四人四色の滅びの形で示していく。

この中で母だけは太宰にとって唯一の他人だったと思われ、唯一のユートピア的存在だったのではないだろうか。だからこそ、彼女の人間性を愛した娘のかず子と息子の直治は、そんな人間になりたいとも、なりたくないとも思った太宰自身に内在する感情の一部であろう。表の顔が流行作家上原であるとしたら、二人は裏の顔であり、さらにそれらが生と死の二極に位置している。このように、太宰に刺激を与える外発的要因と、三つの太宰の要素が物語をふくよかなものにしていく。
ここで、生と死は両極に位置するものと思われがちだが(実際に、先に二極と述べているが)、太宰にとってそれは対立的なものではない。タイトルである「斜陽」がそれを物語っている。真昼の太陽と違い、明るさの中に陰影を含む斜陽は、その暗さによって明るさが際立っている。要は、暗さの中に明るさを喚起させ、明るさの中に暗さを喚起させるという光と闇が同時に存在するのであって、それが絶妙のバランスを持ってした美しさがある。

この小説は、生きるという強く輝く光の中に底知れない不安という闇があって、逆に死へと死へと突き進む衝動の中に永遠を求める光がある。そして四人の人物がそれぞれに交差しあうときにその光と闇の世界が生じ、それぞれがそれぞれに美しさを伴って滅亡へと進んでいく。まさに斜陽そのものであり、四人がバランスよく拮抗し合っているところにこの作品の醍醐味ともいえる静かな緊張感があるのだ。

ここまでの作品を自分のフィルターを存分に、惜しみなく披露しながら書き上げた太宰は、やはり誰からも愛されるすばらしい作家の一人であるといえよう。太宰作品は未読の作品がまだかなり残っている。これからも読み続け、さらなる発見や感動を味わいたい。
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by komei115 | 2012-07-10 20:37 | Reading&Music