青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~千と千尋の神隠し~

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2001年公開(レンタル可)



遠く無意識にあるどこか懐かしい心の情景。言葉の重みや名前に宿る力。律義だった少女の心の変化と成長。「いつも何度でも」観ていたい普遍の名作




アニメ界の巨匠、宮崎駿監督による現代日本を舞台とした少女の成長と友愛の物語を描く、自分探しの冒険ファンタジー。興行収入304億円、観客動員数2300万人越えという、「タイタニック」や「東京オリンピック」を追い抜いた日本国内の映画興行成績における歴代トップの記録を打ち立て、2011年現在も「千と千尋の神隠し」(1位)・「ハウルの動く城」(2位・196億円)・「もののけ姫」(3位・193億円)と、トップの座を維持している。夏休み公開映画であるにもかかわらず、翌年の春休みまで上映が続くという異例のロングラン興行となった。ベルリン国際映画祭においては、アニメーションとしては史上初の最高賞である金熊賞を受賞。その他アカデミー賞をはじめ日本国内外の多くの賞の栄冠に輝いた。2003年1月24日には日本テレビ系の金曜ロードショーでテレビ初放送され、46.9%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)という過去にテレビ放送された劇場映画の最高視聴率を記録した。

あらすじ
両親と共に引越し先の新しい家へ向かう10歳の少女、千尋。しかし彼女はこれから始まる新しい生活に大きな不安を感じていた。やがて千尋たちの乗る車はいつの間にか“不思議の町”へと迷い込んでしまう。その奇妙な町の珍しさにつられ、どんどん足を踏み入れていく両親。が、彼らは“不思議の町”の掟を破ったために豚にされてしまい……。


なぜ今さら?という思いが強いかもしれないが、先日たまたま本作品を観る機会があった。6日の日本テレビ系の「金曜ロードSHOW!」である。
余談だが、平均視聴率が19.2%を記録したことが、ビデオリサーチの調べ(関東地区)で分かった。瞬間最高視聴率は午後11時18分に記録した25.4%だったそうだ。

ジブリ映画はどれも大好きだが、その中でも「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」は別格で面白い。一体何回見たことだろうか。時間にしてみるとこの二作品でまるまる一週間分くらい観ている気がする。そのくせ、毎回見るたびに新しい発見があり、疑問が浮かぶ。いつまでたっても完全には理屈で説明することができない(まあ、だからこその芸術作品であるわけだけれども)。
作品、いや、作品に限らずとも情報が変わることはない。それなのに毎回異なって見えてしまうのは、自身の心身の感性がひたすらに変化している証拠である。私たちはその変化をついつい混同しがちである。「情報は流れるモノであって、私は私だ」と。しかし、それは全くの逆である。「情報は常に固定されてあって、常に私が変化する」のだ。だからこそ、「今、私はどこにいるのか」の意識を持って作品に触れることが大切なのであり、その意味において同じ作品を何度も見ることも時には必要なのかもしれない。
とまあ、えらく脱線してまで、己の主張が便宜でなく正当なものであると訴えたのであるが(だから映画批評のネタが切れたわけでもない・・・はず)、ここから本題に入っていきたい。

この「千と千尋の神隠し」という物語は、すでにいろいろな解説がなされ、評価が下されている。お決まりの「都市伝説」も含めてだ。例えば、この話は北朝鮮の拉致事件をモチーフにしていて、ある日突然違う世界に拉致され、名前を変えさせられ低賃金で重労働させられる姿を描いているという説や、千と千尋はトトロと関連が深く、まっくろくろすけがどちらの作品にも出てきており、千尋と顔なしが電車にのるシーンにおいて、乗客にサツキとメイが座っているという説なんかがあったりする。ほんまかいな。
まあ、都市伝説は好き勝手に言わせておくとして、一つだけ引っ掛かる話として「この物語はソープに身を売られた少女の話をモチーフにしている」というのがある。
確かに主人公の千尋は両親のために湯屋の下女(湯女ともいえる)として働かされることになり、風俗とのイメージが重なる。しかし、これを邪な目で捉えてはならない。これまで男尊女卑だった世の中において女性の仕事は男性への給仕が主だった。だからこそ「女性が働く」ということは多少なりとも売春が関与している。そしてまた、現代は風俗営業が当たり前に蔓延している社会だ。その取り巻きの中で選択もできずに働き、生きる少女の姿をアニメで表現する。その意味で少なからずメタファーとして機能しているぐらいに解釈したい。
このくらいであれば、個人が物語の範囲内で評価するのは構わない。私もよく憶測をつけて説明したがるし、いくらこのように解説してみせたところで意味がないことを承知の上でやっている。しかし、作品、特にアニメにおいて枠を超えた過大な解説を求めるのは不要だ。例えば、同じ年にあった9.11のテロとの関連などである。当時、メディアはこぞって「国際的大事件の余韻を残す時期に、敢えて牧歌的ともいえる本作が評価を受ける理由とはなんなのか。それは現代社会の風刺ではないか」というような評価を専門家に求めたが、それらの批評はまるで意味をなさず、寧ろ無粋である。子どもだって理解した上で楽しんで見ているのだから、それ以上の解釈、ましてや現代人の政治思想とまで関連させるようなことを作品も監督自身も望んでいないだろう。

さて、私がこの映画において真に言いたいことは言葉や名前に宿る力と、そして映画の山場であるノスタルジックな電車のシーンだ。
まずは前者。主人公である荻野千尋は物語の冒頭、親に甘えた無気力な現代の少女(いわゆる「普通」「平凡」な少女)として描かれている。そこに彼女の魅力も個性もなく、本人も「自分が何者であるか」ということなど、まるで気にしていない(しかし、10歳とはこういうものである)。その彼女が魔女の湯婆婆との契約で名前を取られ千となる(ただ、このとき契約書にも自分の名字の「荻」を書き間違える程自分に興味がない)。
これは諱(いみな)を意味している。ゲド戦記などもそうだが、昔の物語において自分の本当の名前を親や君主以外の他人に教えるのを憚る文化があった。それは現に昔の中国文化にもあり、諸葛亮は諸葛が姓で亮が名前(諱)だが、亮の代わりに孔明という字(あざな)が用いられている。本当の名前を知られると、その人に思うようにされるという考えが色んな文化にあったのだ。
少女は自分の本当の名前を忘れそうになっていくが、「自分の名を忘れてはいけないよ」というハクの言葉によって救われる。名前は両親によって付けられ、血とともに自分のアイデンティティになる大きな力を持つ。名前は長い歴史の中で今ここに自分が存在しているという証なのだ。現代において言葉や名前の重みは軽くなってしまったが(だからこそカオナシになり下がってしまった人間は多い。カオナシは私たちだれしもの心の中に住み、名前を、自分を完全に失ってしまった人の末路である)、この物語は名前の大切さを再確認させてくれる。
次に後者について。「あの電車のシーンが山場なの?」と疑問に思う人も多くいると思うだろうが、監督本人がそういうのだから間違いない。そして、私もあのシーンがとても印象的で、大好きだ。
監督は語っている。「そういう形で映画を終わらせることができて嬉しかったんです。カオナシが巨大化して暴れて湯屋をグチャグチャに壊して、お父さんとお母さんの豚小屋に迫って食おうとしているところに、ハクに乗っかった少女が駆けつけて何とかしたとか、そういう話にしなくて済んだことが本当に良かった。それは第一に思いつく方法ですから。一番安直にね。大体エンタテインメントとはそういうものになっているから」と。
初めて自分ひとりで考え、行動した結果、少女はカオナシを連れて電車に飛び乗る。少女の決意の中には初めての経験によるドキドキやワクワク、キョロキョロといった高揚感があったのだろう。だからこそ、敢えて監督は他の乗客を全て影にしている。「千のまわりに普通の乗客がいるとして、その乗客たちに目鼻をつけて普通に色を塗ったら、感情移入しなきゃいけない部分に感情移入しないで、ただそこに電車の窓と同じように人を置いておくということになるでしょ。それは嫌なんですよね。あの子にとっては全部影にしか見えなかったんだろうと思います」。
この過程があったからこそ、少女は親に対する律義さの中にも親と自分との違いなど、周囲と自分とを区別することで得られた自分という個の存在を意識するようになる。その少女の微妙な心の変化・成長を普遍的なノスタルジックな情景の中、電車が運んでいく。なるほど。電車の旅は、普遍的な自分のルーツを探す心の旅でもあったのだ。
ひと回り強くなった彼女は、湯婆婆の姉の銭婆に謝罪しに行き、ハクに乗ってみんなの待つ湯屋へと帰る。そして、自分の名を失っているハクに今度は自分からハクの本当の名前であるニギハヤミコハクヌシ(コハク川)を教えてあげる。それは自らのルーツを探っていったおかげで思い出せた名前であり、種族を越えた愛が奇跡を生んだのだ。二人で手を握り合って空を下降していく何とも感動的なこのシーンは涙を流さずには見られない。

最後に銭婆の言葉をもって締めくくりたい。「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」。一度あったこととは人や言葉、名前、出来事などとの出逢いのことである。何かに行き詰った時、人間の無意識にある幼き頃の心の情景や記憶をもう一度呼び起こしてみたい。そうすれば大切な何かが見つかるかもしれない。
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by komei115 | 2012-07-11 19:51 | Movie