青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~ホーホケキョ となりの山田くん~

ネタばれ注意!

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1999年公開(レンタル可)

どこにでもいそうな、ごくありふれた庶民的な山田一家。その山田家の人々が繰り広げるちょっぴりおかしくてほのぼのした日常は、「ホーホケキョ」と鶯が頭の中で鳴くように牧歌的だ。しかし、その牧歌的な日常の中に垣間見える小さな喜劇や悲劇に今こそ私たちは活目すべきであろう



朝日新聞に連載されていた4コマ漫画の『となりの山田くん』はいしいひさいち氏の作品。それをスタジオジブリが『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』の高畑勲監督の手によって映画化された。

山田家(父たかし、母まつ子、祖母山野しげ、兄のぼる、妹のの子)の日常を原作そのままのペースで描くほんわかな家族ドラマ。たかし・まつ子の結婚から、のぼる・のの子の誕生と成長、山田家とそれを取り巻く人々の日常茶飯事やよしなしごとといったエピソードの数々が短編集的な構成で描かれ、折々に松尾芭蕉や与謝蕪村、種田山頭火の俳句を挟んで歳時記としつつ、温かく緩やかに進んでいく。


以前に友人から勧められて観た映画である。一度、ロードショーか何かで見た記憶があるが、改めてみるとほとんど覚えていなかった。それゆえに、新鮮で心惹かれるものがあった。

『ののちゃん』は、いしいひさいち氏の4コマ漫画作品だ。朝日新聞朝刊の4コマ漫画として、1991年から『となりのやまだ君』の名称で連載を開始した。主人公であるはずの「のぼるくん」よりも妹の「ののちゃん」の人気が高かったため、1997年にタイトルと主人公が変更されることとなったそうだ。一時期、いしい氏の病気療養にともない、2009年11月22日から2010年2月28日まで休載していたが、2011年8月13日に連載5000回を達成している。
私が物ごころついたときから実家では朝日新聞をとっていたため、私の中には「新聞と言えば朝日新聞に天声人語でしょう」という感覚がある。だから、もちろん「山田くん」も知っている。小さい頃に4コマ漫画を見て、正直「どこが面白いんだろう、この漫画」と失礼にも批判していた思い出がある。一人暮らしをしている現在、再び朝日新聞を購読しているが、最近になってようやく4コマ漫画の面白さと奥深さを理解できるようになった(と思っている)。

同じように物ごころついたときからアニメやドラマを見まくっていた私は、小さい頃からジブリアニメも大好きだった。一般的に評価の高い宮崎駿監督の作品ももちろん全て大好きだが、『おもひでぽろぽろ』や『火垂るの墓』、『平成狸合戦ぽんぽこ』といった高畑勲監督の作品も好きだった(『パンダコパンダ』、『セロ弾きのゴーシュ』、『じゃりん子チエ』、『赤毛のアン』なども高く評価したい)。
宮崎監督が壮大なファンタジーや寓話の中の活劇から想像性や教訓などを学ばせてくれるのに対し、高畑監督は身近な人間の日常や記憶の中から人間の喜劇、悲劇といった営みというものを学ばせてくれる(それは『平成狸~』の狸の物語であっても同じことである)。宮崎監督のような派手さはないかもしれないが、身近で何気ないことにも親身に目を向けて拾ってくれる優しさが好きだ。まるで、「傷つき、傷つけ、いろいろあって思い悩むこともあるんだけど、それでも、いや、だからこそ人間って、人生って面白いんだぞ」と訴えてくるようでもある。特に、本作『ホーホケキョ となりの山田くん』を見て強く感じるところがあった。

さてその本作だが、なんといってもまず映像のクオリティーに圧倒される。水彩画のような淡く薄い繊細な色使いは涼しげで、淡白だ。そこでなめらかに動く登場人物たちを見ると、一見デジタルのように思うが、セル画と聞いて目を丸くする。今のCG豪華主義のアニメ化が進んでいた当時代で、それに拮抗するがごとくの画力である(スタジオジブリは本作を最後にデジタルへと移行)。そして、そこに優しい歌声の矢野顕子さんの『ひとりぼっちはやめた』をはじめ、マーラー、ショパン、モーツァルトなどのクラシック、『細雪』や『さくらさくら』、団塊の世代前後はみんな知っている『月光仮面は誰でしょう』、ラストに『ケ・セラ・セラ』と心地良く流れていく。

内容は大きな一つのストーリーの流れがあるわけではない。本当に4コマ漫画をアニメーションとして引き延ばして見ているかのような短編が連なっている。しかし、それぞれが分離独立しているかというとそうではなく、山田家の日常から出てくる小話にはすべて山田一家の「家族の繋がりと世間の繋がり」がメインテーマとして描かれている。腹を抱えて笑う程ではないが、登場人物達の「あるある」言動・仕草にくすっと笑わされたり、ほっこりした安堵感を抱かせられる。かと思うと、何気ない一言に感慨深くさせられたりもする。本当に「ちょっぴり」が似合う映画だなと感じる。

製作費二十億円をかけた本作の興行収入は芳しくなく、配給収入は目標の60億円を大きく下回る7.9億円で赤字、すなわち「失敗」に終わった。高畑監督もこの作品を機に表舞台からは退いている。
原因は色んなところにあったのだろう。例えば当時の徳間書店の徳間康快社長が東宝とケンカして松竹で上映を余儀なくされたこと。そして、その松竹が当時は弱体の上に営業担当が初心者、西日本には封切り映画館がほとんどないといった「とんでもない状況で勝負」しなければならなかったこと。
しかし、公開された1999年と言う時代を考えてみる。ノストラダムスの世界崩壊の予言に湧く中、日本の低迷・不況が続き、良くなるのか悪くなるのかの今後の見通しも分らないまま、混沌とした日常が続く時代だった(私は何も考えず、友達とのゲームに熱中する『ゆとり小学生』だった)。この時代の中で、日本よりもまず「家族」という身近なテーマに目を付けた高畑監督の先見性は本当に鋭いと思うが、果たして世間は受け入れられたのかというところに疑問がある。
アニメなのにとてもリアルな本作を見応えがない、つまらないと言う人は多いと思う。実際私も、観る時期が違っていたら「日常がこんなに辛いんだから、アニメやドラマくらい壮大な話を聞かせてよ」という気持ちになったかもしれない。それに相まって、昔の情景や「月光仮面」といった懐古主義にも結び付けられるような雰囲気を出したり、「ケ・セラ・セラ」と歌われたりしては、なおのこと本作に対して否定的な気持ちにもなろう。
つまり、この時代に本作はいくらか「早過ぎた」のではないだろうか。作品の時期までとやかく語るのは無粋なことではあるが(それに、もしかしたらいつまでたっても「早過ぎる作品」というカテゴリーから抜け出せない恐れがある)、そう考えずにはいられなくなる。

その点、私が2012年になって再び観たのは丁度良かったのかもしれない。
2011年から「絆」や「愛」と言った言葉が日本中に溢れている。それはまるで、一種の流行のようにも映り、酷いときにはバーゲンの大安売りみたいな宣伝文句として私の耳には聞こえるようになっていた。言葉だけが独り歩きをしていると思うようになっていた。
そんな時、やれ政治をどうするか、経済をどうするか、環境をどうするか、教育・福祉をどうするかとついつい大きなところに目を向けてしまいたくなるのだが(実際にそれを考えることは大事なのだけれど)、「もっと身近な『ちょっと』したところから考えてみましょう、まずは自分の『家族』に対し、あなた達が今叫んでいる『絆』や 『愛』といった繋がりはありますか?」と問いかけてくるような本作を見て頭を打たれるような感覚と心に沁み入る家族の温かさを感じた。

是非、観ていない人は一度、観た人はもう一度、見てもらいたい作品であり、もっと評価されても良いと胸を張って言える作品でもある。
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by komei115 | 2012-10-10 23:13 | Movie