青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~希望の国~

ネタばれ注意!
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2012年10月20日よりヒューマントラスト有楽町ほか全国各地で順次公開中
詳しくはhttp://www.kibounokuni.jp/より


帰る家を失った私たちはこれからどこに帰ればいいのか





『愛のむきだし』、『ヒミズ』、『冷たい熱帯魚』などの衝撃作を次々と発信する園子温監督が描く、震災と人災の被害を受けた家族の物語。震災と事故の影響で家族が散り散りになりながらも、3組の男女がそれぞれに貫いた愛を紡いでいく。第37回トロント映画祭最優秀アジア映画賞を受賞。

あらすじ
東日本大震災より数年が経った原発の町、長島県大原町(架空)。そこで暮らす泰彦(夏八木勲)と妻(大谷直子)は息子夫婦(村上淳、神楽坂恵)と一緒に酪農と農業を営んでおり、生活は慎ましくも満たされていた。しかし、そんなある日、突然の大地震が村を襲った。「原発は大丈夫だよな?」泰彦の脳裏に数年前の福島原発事故がよぎる。その後、泰彦らの家は避難区域に指定されたが、先祖代々長く住んだ家やアルツハイマーの妻がいるため家を離れることができない。葛藤の日々を送る中、息子の妻いずみの妊娠が発覚。二人は子どもを守るためにあることを決意する。


初めに園子温監督が『希望の国』を手掛けるにあたって何を伝えたかったのか、そして何を感じたかを述べたいと思う。以下は「週刊金曜日」916号でのインタビュー記事を参考にしている。
監督の前作である『ヒミズ』は劇映画でいち早く被災地の実景を取り入れ話題となったが、同時に批判の矛先になった。今回、震災映画三部作の第二弾である本作も例外ではない。原発映画にはタブーとされていることが多い。
「何故この題材をテーマにしたのか」「描くには早過ぎないか」と監督は質問を受けるたびに、聞くなら「何故(他の人たちは)撮らないのでしょうか」じゃないのか?それじゃあ10年後に何かを思い出すように撮ればいいのか?と考えたそうだ。資金の提供も日本の会社は出し渋り、イギリスと台湾の会社に出資してもらうというなんとも矛盾した結果だった。
海外の人は撮って当たり前の感覚なのに、何故原発事故を目の当たりにした日本では「どうして撮るのか」と言うのか。監督は日本人の資質にあると言う。何かを撮るにあたって原発にしろ、戦争にしろ、ブラックな部分を包括してまでその時代を深く分析する手段としては考えない、表現にとり入れない方が美徳だろうという資質。それは悪く言うと時代を受け入れない「羊たちの沈黙」なのだ。
監督は言う。「もし、また原発事故が起きて4回も被曝することになったら赤塚不二夫の世界だよ。僕は「脱原発」という言葉もまだゆるいなと思う。そうじゃなくて原発は今すぐ出てけ!ってことです」

さて、映画を見終えた私は、それで終わりにはならずに、自身の中でいろんな何かがずっと引っかかっている。
それをこの場で紐解いていけたらと思う。

本作は園監督の今までの作品とは明らかに趣が異なるが、その異なりとは一体何なのだろうか。
思うに、それは「過剰さ」である。これまで描かれていた目をそむけたくなるような暴力や人の死がすっぽりと抜け落ちた様な気がしてならない。だが、その淡々と語られ切り取られていく映像は、時間が「その日」から止まっているかのようで、また、映像の中の世界は酷く乾燥していて、まるで一コマ一コマの絵を見ているかのように映った(それは希望の未来が閉ざされたことを意味しているのかもしれない)。それらは、3.11をリアルに想起させるほど過剰なまでに現実味を帯びていて、ある種の恐ろしさを引き立てて視界に飛び込んでくる。この「現実感」が実に恐ろしかった。
だが、恐怖はこれだけでは終わらなかった。家に帰って他の人のレビューが目に入った。「あまりに過剰で不快極まりない映画だ」と書かれているのを見て思い知らされた。「ああ、この映画の世界より現実世界の方が過剰なところまで来てしまったのだな」と。私は過剰なまでに現実的だから恐ろしいと言ったが、他にレビューを書いた人は過剰すぎる「フィクション」が不快極まりないと言っている。つまり、3.11の震災で暴かれた負の事実を認めたくないのだ。「復興・再建」、「絆」、「頑張ろう日本」という言葉に目を向けて美化し、未だ収束しない問題には目を伏せて沈黙してきたからこそ、忘却の装置が働いたその人はこの映画を受け入れることができなかったのだと思う。
思い出したくない記憶は立ち向かわずに沈黙を、無関心を決め込むと、どんどん風化し忘れ去られる。もう、二度と「あの頃」の日常には戻れないのに、異常さをそのまま放棄して仮想の日常を共有して生き始める。そうして、また人は同じ失敗を繰り返すのだ。
しかし、自分には批判する権利はない。私の心にも少なからず忘却の装置は働いていたからだ。私は映画を見ている際に涙をこぼしてしまったが、それは映画そのものの感動ではなく映画に気付かされる自分への怒りだったのだ。「何故、映画を見るまで現実を忘れていたのか」という言葉が映画のシーンとともに頭にリフレインする。
震災後の数カ月、私はマスクを装着し雨に濡れないように合羽を着て歩いていた。スーパーで商材を吟味し、水道水を使うのをやめ、ひたすら節電をこころがけた。それが今ではどうだ。節電などは習慣化していても、その他全ての生活が震災前に戻っている。
解決もしていなければ、未だ問題は山積みで、蓋を開ければ空気中には依然放射能が舞っていて山も川も池も海も見えない放射性物質が溜まっている。決して忘れることがあってはならないのに、その事実すら収束したように頭の中で書き換えられている。結局のところみんなが右を向けば自分も右を向いていた。そんな自分に心底腹が立った。

映画の中で印象に残った言葉がある。「杭」だ。危険区域内と外の境界でこん、こん、と杭を打つ音がいつまでも耳に残り、家族が茶の間でも杭を隔てて対面するシーンが目に焼きついている。
「杭を打つ」とは境界線を作ること。誰かが杭を打ち、誰かが杭をうたれる。誰かが境界線を引き、誰かが境界線を引かれる。それは区別であり、差別だ。杭を打つのは本当に良いことなのだろうか。誰かが勝手に引いた境界線をただ指を咥えて見てるだけで良いのか。
決してそうではないはずだ。境を作るから人は争う。本当は「杭」なんて全て取っ払われるべきものではないのか。少なくとも、放射能のような見えず、拡がるものに関して境界線など引く意味がない。
危険区域内外だけでなく、生活の至る所に杭は潜んでいる。まずは杭を見つけなければならない。しかし、境があることに慣れてしまった私たちに杭は見えるだろうか。そう考えながら帰りの電車に乗っていると、シート(優先席)や吊革(携帯電源オフ区域)、車両(女性専用)という杭をすぐさま発見した。そうだ、これもれっきとした杭なのだ。車内では黄色の吊革付近でも大半の人間が堂々と携帯をいじり、それでも優先席は周りの目もあってか満員でも席が二三個空いていて座らないし、座れない。色まで変えて優先席作っておいて全然優先席の役割果たしてないじゃんと心の中で突っ込んでしまった。

最後に、『希望の国』の「国」とは何を意味するのであろうか。それはナショナリズム的な「国家」の意ではなく、文化や伝統といった、人々が地肉を注いで営むなかで生まれた「郷土」の意である。
「家に帰ろう」とアルツハイマーの妻がしきりに叫ぶ。それはあの頃確かにあった国に違いない。もう、私たちは家に帰ることはできない。
私たちは既に過剰な世界の中で生きている。戻れないし、逃げることもできない。絶望的だ。では、その中で希望を掴み取るにはどうすればいいか。魂の問題である。現実を受け止めて、そこから努力をし、心に灯火を宿し、希望はあるのだと信じるしかない。それも作中出てくるように「一歩二歩」じゃなくて「一歩一歩」。足取りはおぼつかなくても、刻印を残すように確かに踏みしめていく姿勢が必要だ。そして、それには自分の大切にする周囲への配慮であり、気配りであり、それはすなわち愛が必要不可欠なのである。
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by komei115 | 2012-10-24 23:23 | Movie