青い果実の実る頃には

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映画から学ぶもの ~桐島、部活やめるってよ~

ネタばれ注意!

072.gif072.gif072.gif072.gif☆  9/10

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2012年8月11日より全国各地で超ロングラン公開中
詳しくはhttp://kirishima-movie.com/index.html

物語ラスト五分。世界の虚と実が入れ替わる。さあ
こいつらぜんぶ喰い殺せ!!




第22回小説すばる新人賞受賞作家朝井リョウのデビュー作を『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の吉田大八監督が映画化した青春群像劇。学校一の人気者である男子生徒・桐島が部活をやめたことから、少しずつ校内の微妙な人間関係に波紋が広がっていくさまを描く。吉田監督の手によって小説の良さは最大限に引き出され、学校生活に潜む不穏な空気感を巧みにあぶり出されている。クラスでは目立たず地味な存在の主人公に神木隆之介、加えて『告白』の橋本愛、『SAYURI』の大後寿々花らが共演する。

あらすじ
とある田舎町の県立高校映画部に所属する前田涼也(神木隆之介)は、クラスの中では地味で目立たないものの、映画に対する情熱が人一倍強い人物だった。そんな彼の学校の生徒たちは、金曜日の放課後、いつもと変わらず部活に励み、一方暇を持て余す帰宅部がバスケに興じるなど、それぞれの日常を過ごしていた。ある日、学校で一番人気があるバレー部のキャプテン桐島が退部。それをきっかけに、各部やクラスの人間関係に動揺が広がり始めていく。


8月11日公開を前々から知っていたが、観に行こうとは思ってなかった。理由は「面白くなさそう」と「今の子どもたちの青春映画なんざ…」という考えで。私はこの映画を見下していた。
それが3ヶ月経った今も映画を公開しているという異例の超ロングラン公開。口コミで広がり「桐島やばいよ」という噂が新聞でも目に付いた。それならば見てやろうと重たい腰を上げてヒューマントラストシネマ渋谷の最終公開へ。見終わってしばらく動けなかった。
「吉田監督、ナマ言っちゃってホントすんませんっした!」と言いたくなる程打ちのめされていた。忘れていた。デビュー作の『腑抜けども~』を劇場で見た時も確かに面白かったのだ。その監督が作ったのだから、チェックはしておくべきだった。公開初日に観に行けなかったことを酷く悔やんだ。
こんな秀逸な青春群像劇はなかなかにお目にかかれない。絶賛である。脚本構成、演出。役者の演技、台詞。全てが最高レベルと言っても過言ではない。エンタメ性に溢れて鑑賞者を終始飽きさせず、なおかつシーケンスに含まれるメタファーが半端な量ではない。誰もが一度は通った道。誰に共感し感情移入してもよく、また、どうとでも解釈できるので鑑賞者一人ひとりが延長上の「桐島、部活やめるってよ」の世界を堪能することができる。これが現代日本の青春映画だと言っても納得できよう。何にせよ私の今年のベスト3に入る映画であることには違いない。何度も観たくなる作品だ。



ここから先はもろにネタばれを含むため、観た人だけどうぞ。
そして、長文失礼。この映画に関しては語りたくてしょうがないのである。















金曜日。それはイスラム文化では集団礼拝の日であり、キリストが十字架に架けられた曜日でもある。とある高校では生徒朝会が行われ、いつものように学校生活が過ぎていく。そう思っていた矢先、事件は起きる。
「桐島、部活やめるってよ」。瞬く間に生徒の間で噂は広がり、一部の生徒には動揺が走る。まるで「13日の金曜日」であるかのような不穏な空気が流れ、世界の歯車は少しずつ狂っていく。
まて、そもそも「桐島」とは一体誰なのか。彼らにとっての「桐島」とは何なのか。しかし、物語は不親切にも彼を一切語ることなく、タイトルの桐島自身が一切不在のまま進んでいく。そのぽっかりと空いた穴は、ブラックホールのように暗く、深く、広くて不気味だ。しかし、一番不気味なのは、そのブラックホールがどこまで影響するのか測れないことにある。
そして、また話の進み方が秀逸である。映画は、その金曜日のエピソードを、キューブリックの『現金に体を張れ』のような、主要人物の視点を変えて何度も反復するスタイルで描き出す(しかし、それ以上に「学校」と言うテーマだけにガス・ヴァン・サントの『エレファント』を想起させる)。その巧みな語り口によって浮かび上がってくるのは、ありふれた高校生活の中で帰宅部や運動部、文化部などに分化されたグループによって築かれた、不可視な校内ヒエラルキーの存在である。大まかに言うと上位グループと下位グループ。つまり、「デキる奴」か「デキない奴」かのそれである。それも、単に「勉強や運動が出来る」というのではなく、圧倒的マジョリティ側の評価によってふるいに掛けられたステータスなのだ。
登場人物達の動揺などで、桐島と言う男が学校の人気者で、その上位グループの頂点に君臨しているということが分ってくる。しかし、それが一体どうしたというのだ。彼が部活を辞めることが何故そんなにも不穏な空気を呼ぶのか。

この問いを説くとするなら、舞台劇『ゴドーを待ちながら』がこの作品の核心を突いていると言えよう。
『ゴドーを待ちながら』(En attendant Godot)とは、劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲である。副題は「二幕からなる喜悲劇」。1940年代の終わりにベケットの第2言語であるフランス語で書かれた。初出版は1952年で、その翌年パリで初演。不条理演劇の代表作として演劇史にその名を残し、多くの劇作家たちに強い影響を与えた(ウィキペディア参照)。
この物語は、大まかに言うと「ゴドー」と言う男を、二人の男が首を長くして待つというだけの話だ。ゴドー(Godot)は一向に現れず、終に何者なのかは分らない。しかし、待つ側の二人を見ていると、とても重要な人物であることだけはわかる。このことから、ゴドーは神(God)のもじりだと言う説もある。
そう考えるとどうなるか。来るか来ないか解らない神を永遠と待ち、神の行動にのみ左右される人間たちと解釈することができる。すると、何も目的も無く生きているだけというような人物の虚無やアイデンティティの喪失がふいに浮かび上がり、自己の存在意義を失いつつある現代人の孤独感を突きつけられることになる。
「桐島」もまさにそうなのだ。一向に姿を見せない彼を必死に探す生徒たちは、神という絶対的な指針を失い、今まで築き上げられた秩序を失って混乱する者そのものである。
桐島不在の生活で誰がどのような変化を魅せるのか。これは映画の大きな醍醐味である。

私は、ここで学級の中でも特に述べておきたい3人の生徒を紹介することにする(その他誰の視点で観てもストーリーがあり、内面の機微の変化が面白いことに違いはないのだが)。


・菊池宏樹の視点(元野球部)
登場人物の一人に菊池宏樹という男がいる。彼は「結局、デキる奴は何でも出来て、デキない奴は何にも出来ないんだよ」と言って軽くボールを放ち、バスケットゴールを揺らした。そう、これが今のこの学校の価値、それ以上に真理なのだ。そして、恰好よくシュートを放った彼は、案の定上位トップグループに位置づいている。
誰からも慕われ、野球部の先輩からは試合に出てくれとせがまれ、彼女も自分にゾッコン。そんな誰もが羨むような生活を送っている宏樹だが、その表情はどこか虚無的である。野球部を辞めたのに、野球部のショルダーバッグを肩に下げて登校しているのはなんだか不自然でどこか未練がましくも映る。彼女や友人とのたわいも無い会話に明け暮れることに違和感を覚えていることがわかる。そんな彼にとっての「桐島」は親友であり、自分と似た境遇であるだけに心の大きな支えでもあった。これで良いのだと。
その桐島が居なくなって一番動揺したのは間違いなく宏樹だ。唯一信じていた桐島の生活=自分の生活の価値が大きく揺らぐ瞬間でもある。
物語のクライマックス、宏樹は映画部の前田と話をする。この時、彼の中で虚と実が入れ替わる。今まで眼中になかった連中が自分より遥か高いところまで現実を捉え、考えていたことに気付かされた。映画部の連中は、現実の中に心折られながらも堂々と立っていたのだ。それでも前田に「かっこいいね」と言われてカメラを向けられ、彼はついに自身の脆さを出してしまう。
帰り際、震える手で桐島に電話しても、やはり彼は出ない。目の前にはかつて自分が野球部として走り回っていたグランドが。泣き出した彼の目にはどう写っていたのだろうか。
ところで、事件は金曜日に始まり、土日を挟んで月、そして5日目の火曜日にクライマックスが訪れる。ここで視野に入れておきたいのが、金曜に配られた進路調査票の提出期限が「来週の水曜」であること。これが何を意味しているか。
進路調査票とは、いわば卒業と同時に「高校生」という枠組みにから解放されたとき、自分は果して「何者になるか」と言うことをまざまざと突きつけられるものである。
映画のエンドロール。それは火曜なのか、水曜なのか確かではない。しかし、宏樹だけはまだ自分が何者であるかが書かれていなかった。彼はいったい何者になるのだろうか。


・沢島亜矢の視点(吹奏楽部)
沢島亜矢は吹奏楽部の部長で内気な女子高生だ。上位、下位かと言われれば下位グループである。
自分の前の席の宏樹に強い憧れと好意を持っているが、彼女がいることも知っており、喋ることは無い。ただ、一度宏樹が虚ろな目で窓の外のグランドを見たとき、二人だけの世界がそこにはあった。
もしかしたら彼女は全てをわかっていたのかもしれない。彼のその眼差しを。そして、その宏樹が好きな自分を。
彼女は遠くから音を奏で、宏樹に気付いてもらえるように練習する。それは彼に自分の存在を認識してもらいたいだけでなく、彼を元いた場所に帰そうとする試みにも映る。
しかし、宏樹は亜矢の行為に気付くことは出来なかった。そして、あろうことか宏樹の彼女が先に勘付いて亜矢の見ている目の前で宏樹と熱いキスを交わした。
彼女はその現実に打ち砕かされ、部室へと戻る。そして、終末に向けて演奏を始める。
それはワーグナー『ローエングリン』の「「エルザの大聖堂への入場」だった。『ローエングリン』は元はオペラであり、一つの物語である。この物語が登場人物達に当てはめてみてもまた面白い。主人公のエリザは亜矢自身であり、白鳥の騎士ローエングリンは宏樹だろう。残酷な結末は確かに似たものを感じる。



・前田涼也の視点(映研部)
前田涼也は映画研究会の部長である。映画について語ること、映画を撮ることしか興味はなく、仲間も映画を愛する連中のみと交友関係は狭い。そして、愛読の映画雑誌は『映画秘宝』というマニアック志向高き本である。要は映画オタクであり、学内ヒエラルキーの中では最下層の人間である。映画コンクールで一次審査に通っても、クラスでは馬鹿にされるだけ。
そんな涼也だが、彼には撮りたい映画があった。ゾンビ映画である。
映画とは総合芸術であり、現実に起こっている問題や苦悩を何かに象徴させて描かれているために、そこには必ず何かしらのテーマやメタファーのアイコンが映し出される。悪魔に取りつかれた娘という単なるホラーに見える『エクソシスト』であっても、そこには思春期の娘の不可解さというメタファーが内在している。
ジョージ・A・ロメロの傑作『ゾンビ』(Dawn of the Dead)の世界は蘇った死者であふれ、国や社会を崩壊していく。しかし、逆にとらえるとこれまでの閉塞的な社会が虚無的絶望であり、その成りの果てのゾンビ世界で、それでもなお、生き続けなければならないとする主人公たちの生への希望が描かれている。
涼也とその親友の武文は顧問の先生が書いた脚本「きみよ拭け! オレの涙を」(ちなみに顧問の先生が読む映画雑誌は『ロードショー』という大衆向け映画雑誌)の映画化をさせられ、うんざりしていた。だからこそロメロの『ゾンビ』をなぞった『生徒会オブ・ザ・デッド』の脚本を提出するが、却下されてしまう。「宇宙ゾンビもいいけどさあ。前から言ってるじゃん?半径1メートルの悩みを描かないとリアリティ無いじゃん? 宇宙ゾンビはお前にとって切実なのか?」そう問われ、勢いあまった武文は「はい」と答えて叱られる。
このシーンは笑いどころとして演出されているが、武文は真実を語っている。映画部の2人にとって世界とは絶望に支配されている。「きみよ拭け! オレの涙を」というタイトルに象徴されるような恋愛や青春の苦悩こそ、彼らの「半径1メートル」には存在していない。顧問に強要された「半径1メートルの悩み=現実」という脚本の青春物語よりも、武文や涼也にとっての青春は「青春=残酷で無残な現実に対するささやかな抵抗」にあり、そこにわずかながらの希望や夢を託すという切実な問題なのだ。
彼らには試合での勝利も、格好良さも、恋愛の充実も何も無い。だから彼らにとって「桐島」の不在はどうでもよく、日常の事でしかなかった。
映画部は一念発起し、顧問に内緒でゾンビ映画を撮り始める。しかし、クライマックスで事件が起きる。屋上での撮影中、屋上にいると噂された桐島を追ってバレー部員や、いつもつるんでいる帰宅部の仲間、桐島の彼女たちが飛び込んでくる。そして、映画部員にとっては「全く関係が無いしリアリティも無いしどうでもいい」理由で自分たちの切実な悩みの映画作りを邪魔される。
このとき、堪忍袋の緒が切れた映画部員たちは立ち上がった。

そして衝撃のラスト。ここからカメラを通した涼也が覗く「真実」が、吹奏楽奏でるローエングリンの音楽とともに描かれていく。
虚無感で満ちた映画部員たちは自らゾンビとなってクラスの連中を襲い始める。みんな喰い殺せという涼也の掛け声とともに。噛みつき、内臓をえぐり、手足を引きちぎる。屋上で「ゾンビに襲撃され、恐怖に怯えるクラスメイトたち」の描写は、まさにウイルスに感染し、映画部員たちと同じように毎日を隷属的に生きるしかなくなる覚悟をさせられる瞬間である。
「事実」としては、映画部の連中は恫喝され突き飛ばされ屈服させられただけだった。しかし、このとき確かに生徒たちの中ではそれぞれに何かが変わったのだ。映画部員に感染させられた虚無感はぬぐえず、また屋上に「桐島」はいなかった。満ち溢れた“希望の日々”を取り戻そうと躍起になっていたクラスメイトの希望は打ち砕かれたのだ。
事件が幕を引いた後、宏樹は、突き飛ばされて落として壊れたカメラをとりあげて涼也に向ける。「将来はアカデミー監督?」と冷やかすようにそう聞く宏樹に残酷な一言を涼也は放つ。
「それは無いです。」
涼也は将来を見据えて映画作りをしているわけではなかったのだ。映画は好きだが、映画の世界に進む事、ナンバーワンになる事は叶わないことをとうに知っていた。それは所属していた野球部のキャプテンが野球の世界でプロとしてやっていく事は無いだろうと薄々感ずいていてもなお「ドラフトが終わるまで」とバットを振る事をやめないのと同じだった。
では、彼らは何のために挑戦することを、努力することをやめないのか。
無理だと解っていても努力を続けているとする。すると、フッと、輝かしい「夢見る世界」と「自分の立っている世界」とが地続きで繋がっている感触をつかめる瞬間が来る。それは一瞬の感覚であるが、それがあるからやめられない。やめたくないのだ。
それを突きつけられたからこそ宏樹は愕然としてしまう。徹底的に絶望をするのだ。自分には居場所も、目指す未来像も、好きなものも無い。自分が何者であるかが理解できない。


さて、子どもにとって学校は戦場であり、世界そのものだ。いつ自分がグループからはぶられるかわからない。言葉や行動一つとっても周りの評価ががらりと変わってしまう中で、日々恐怖を胸にしまって懸命に自己を同調させる。高みを目指さず、早々に諦めた世界の中で謙虚にアピールするのだ。同調圧力。これは日本の中高生の心に住みつく大きな闇だ。
しかし、そういう私たちも同じではないのか。学校を越え、社会の死屑の中で必死に周囲と同調し、目立つ行動を控えるし、出る杭は打とうとする。大人になっても何も変わらない。出来ないことは鼻から諦め、挑戦せず、評価されないでも必死に挑戦している者を集団で馬鹿にしてあざけ笑う。この暴力は凄まじい。
学校から世界へと視野を広げたとき、本作に登場する学校は世界というメタファーでしかなかったことに気づかされる。
ロケ場所は高知県のとある田舎の高校だが、見事に抽象化され普遍化されている。その一方で個々のキャラクターはそれぞれの機微の心情さえも丁寧に救いとれており、まるで本物の高校生のように活き活きと動き出す。誰でもコミットしやすい環境と、感情移入しやすい登場人物達が織り成す本作は、誰もが生きているこの世界そのものを体現していたのだ。
そうすると、愕然となる。そう、私たちにとっての「桐島」は国家であり、都市だったのだ。中心として存在してそうで、それはタマネギのように剥いても剥いても一向に本質が見えてこないのは「桐島」のようなもの。その点で「桐島」はイデアやメシアといった神やキリストなどではなく、レトリックで塗り固められたトリックスター的存在だと言えるのではないだろうか。
格差社会の縮図と化した高校生活のディテールを、これほどまでリアルに(だからこそ冷酷で、無残)、繊細にすくいとった作品は、近年、稀だろう。

本作は私の記憶を呼び起こし、心のかさぶたを剥がしていった。思い出したくない青春。他人と同調した世界には虚しかなく、振り返ってみると輝かしさなんてものは微塵もない。それは無残でしかないのだ。私はそれに気付かなかった。気付けなかった。もしかしたら今も気付けていないのかもしれない。
観る者全員の心には決して響かない作品だとは思う。この映画の真の良さを分ることができるのは宏樹のような「気付く者」か、映画部の連中や吹奏楽部の沢島亜矢のような「マイノリティの痛みを知り、それでもマイノリティに生きることを選ぶ者」である。その点で私も真に本作を理解したとは言い難いのかもしれない。
それでも、だれが見ても「他人事」では済まされないほどに迸るパトスがここにはある。
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by komei115 | 2012-12-05 17:25 | Movie