青い果実の実る頃には

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カテゴリ:Nature&Science( 3 )

最近のマイブームに「脱出ゲーム」がある。閉じ込められた部屋から色々な道具を探し、暗号を解読し、閉ざされた脱出口から逃げ出すというゲームだ。出題者側の手口に「なるほど」と舌を巻いたり、「こんなところに隠すなよ」とツッこんだりとこれがまたなかなかに面白い。なにより、閃いて試したことが正解だった時の快感はたまらない。

さて、話は変わって学術雑誌『Science』のデイリーニュースサイト「ScienceNOW」で紹介された研究記事を読んでその一つに関心を持った。人間は、どうやら隠すときと探すときとで違う場所を選ぶというらしいのである。
カナダのとある研究者たちは、隠れんぼのゲームを研究し、何かを隠したり探したりするときに私たちの脳が一体どのように機能し働いているのかを調べるために、初めてバーチャルリアリティを利用した。
そこで発見されたのは、不思議なことに人間は自分が隠した場所とまったく同じ場所を探すのではないということだ。
大学の心理学者たちは、現実の部屋で約100人のボランティアの協力を得て実験を始めた。部屋にはソファー、テーブル、絵画が設えてあり、部屋の隅のひとつは暗く、窓が1つある。人々は、それぞれ2分間で、中に入って部屋に70箇所以上用意してあるタイルの下の一つにカードを隠した。そして、同じように2分間で別の人たちが隠したカードを探した。当然のことながら、一度に入るのは常に1人である。
彼らはそれぞれ、隠すときと探すときで異なる戦略を用いることに気が付いた。例えば、多くの人は部屋の中央に対象物を隠すことを選択したが、その後で探す人々は部屋の隅を探した。この行動は研究者たちを驚かせることとなった。研究者らは隠すときと探すときに同じ戦略を用いることが観察されると予想していたからだ。
その後、カナダの心理学者たちは部屋をバーチャルで再現し、再びゲームを行った。ヴォランティアの人々には、室内装飾を変えたり、ドアや、窓や、家具などを動かすことを許可したが、ここでも、前回の実験と同じように隠すのと探すので異なる場所が選ばれた。例えば、彼らは暗い部屋の隅を探すことを選択し、窓に近い場所を避けたが、彼らは隠すときにはそのようにはしなかったといった具合だ。
なぜ人が、自分が隠す場所を探さないのかは未だ謎に包まれている。ひとつの仮説として、隠すことと探すことは、脳の異なる2つの部位が関係する行動であるというのがありうるが、彼らは今後この仮説を検証する新しい実験を行うだろう。

この現象に対するキーとなる発言をしている人がいる。イタリアのパドヴァ大学の一般心理学の教員で、、「Il Mulino」社出版の『ゲーム』の著者ヴァレンティーナ・ドゥルソ氏だ。
「探し手は、隠し手の心理の研究から出発するわけではありません。それとはまったく異なる性質のハンターのような態度で、その場をしらみつぶしに探す傾向があり、機械的で原始的です。隠れんぼで遊ぶ子どもは、単純な方法で視界から隠れようとする傾向があります。例えばベッドの下です。しかし、すでに遊び慣れた少年は、逆に、鬼が数を数えるドアの後ろに身を置きます。なぜなら、鬼の心理を分析して、普通ではなく探し手の考えの及ばない場所が最も安全だと想像するからです。要するに、隠す(隠れる)人は、子どもでもないかぎり探す人よりもずっと頭を使っていて、より当たり前でない場所を選ぶのです」
つまり、ものを探すときは原始的だが、隠すときは頭を使う。視界の中にあるけども、心理的には遠い場所に置こうとする性質があるのだと氏は説明する。

この研究はいろいろと興味深い側面を持ち、多様な応用が効くと予想される。例えば、リアルでもバーチャル行動が同じであるならば、鉄道の駅、空港、そのほかのテロリストの攻撃目標となるかもしれない場所、さらに、イラクやアフガニスタンのような開けた戦場を再現することだってでき、そしてこのことが、爆弾や、武器や、ドラッグの発見を容易にして、テロリズムや密輸との戦いに革命をもたらすコントロールシステムなるものが生まれるかもしれない。また、ゲームとしてもさらなる展開・開発が見えてくる可能性を多く秘めている。
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by komei115 | 2012-10-15 16:20 | Nature&Science
先日、最近のアニメ事情でも話題に出たが、先日から「もやしもんリターンズ」が始まった。
「もやしもん」は青年漫画誌『イブニング』(講談社)にて、2004年16号より連載中で、2007年10月から12月までフジテレビのノイタミナ枠にてテレビアニメが放送された。2010年には実写ドラマ化もされている。

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さて、タイトルにもある「もやし」とは何だろうか。それは、「もやしっ子」などの野菜のもやしではなく(私は恥ずかしながらそのもやしを想像してしまった)、味噌や醤油、清酒、焼酎、みりんなど醸造食品と呼ばれる食品の製造に用いられる麹を製造する際に、麹菌を供給する目的で蒸米などに加える種麹(たねこうじ)の別の呼び名である(ちなみに種麹を扱う人たちのことを「もやしや」と言う)。いわゆる「菌」アニメだ。
なんと肉眼で菌を見ることができる主人公・沢木を中心に、菌・ウイルスに密接に関わる農業大学の学生生活の日常を描いている。
最近、農業に興味を持ち始めた時にこの作品と出合った。なんとも面白い。物語が始まってすぐに出てきた「キビヤック」の話に度肝を抜かれた。初めて聞く単語だが、イヌイットやエスキモーが作る伝統的な漬物、醗酵食品らしい。なんといってもその加工過程がえげつない。死んだアザラシの腹の中に海鳥を詰めて地中に長期間埋めて発酵させるという代物。アザラシの腹を捌くとドロドロになって現れる内容物は一見発酵ではなく腐敗のように見えて仕方がない。
そして、食べ方。ドロドロになった海鳥を取り出して羽を毟り、肛門から口で内臓を吸い出して食すらしい。臭さは納豆の14倍だそうで。
聞いただけで今日食べた物をリバースしてしまいそうだ。「よく、そんなもの食べたよな」と尊敬してしまうが、そこにはちゃんとした理由がある。極寒の地域で暮らす人々にとって、野菜などは食べる機会がない。代わりに生肉を食べることでビタミンを補っていたのだが、それも外から入ってきた肉を焼いて食す風習によってビタミンを取る機会がめっきり減ってしまったそうな。そこでキビヤックを食する習慣が生まれた。
この話が功を奏してか、その後夢中になって7巻まで読破してしまった。11巻まで出ているので早く続きが読みたくてしょうがない。
主人公の目から見える可愛らしい姿の「菌」達が様々な「菌」についての知識を与えてくれる。初めて聞く情報ばかりで、なるほどと唸ってしまう。
ついつい「菌」マンガと聞くと軽く、そして引いて見てしまいがちだが、菌は私たちの生活の大半に関わっている。今日、菌という言葉を聞くだけで嫌な顔をし、菌を毛嫌い、できるだけ無菌の環境作りに奔走する現代人だが、殺菌するあまりに菌に対する免疫力は段々と薄れてきている。潔癖症とも思える無理な除菌や洗浄は体臭や病気の悪化にも繋がることをこの作品は警告し、可愛らしい菌マスコットによって菌に対する親しみを湧かせ、菌との共存こそが生物本来の生き方であることを示唆している。
そして、農業においても菌は欠かせない存在である。野菜や家畜など食材そのものも菌が大きく関与しており、味噌や醤油、酒などの発酵によって成る食品は菌がないと作れない。私たちの食するもの全てを菌が支えていると言っても過言ではないし、私たちは食材に内在する菌を体内に取り込むことによって腸内環境を健全に保つことができ、病原菌から体を守ってくれている。正に菌さまさまだ。
はじめは本としてのカテゴリーで載せようと考えていたが、農業関係のマンガと言うこともあって自然と科学との結びつきが強かったために、ここに記載した。今後も、この作品から学んだことをそのうちまとめて載せようかしらとも考えている。
農業は人間の原点の生業であり、人間の営みがあるところには必ず農業がある。そして何より自然環境という大きな恩恵によって成り立つ業だ。もはや人類とも自然とも切っても切れない関係である農業をいろんな方面から見ていきたい。
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by komei115 | 2012-07-09 22:49 | Nature&Science
われら、この地上にありて生きる限り、歓びより歓びへと導くは自然の恩恵なり 
                                            
                                          -ワーズワースー

新たなカテゴリーNatureを加え、自然についていろんな角度から考えてみます。
近いうちに以前の自然ネタもこちらのカテゴリーに移していく予定です。


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うさぎ追いし かの山
小ぶなつりし かの川
夢は今も めぐりて
わすれがたき ふるさと

唱歌「ふるさと」の一節だ。
あなたは「ふるさと」と聞くと何を思い浮かべるだろうか。
永遠に続く階段、坂道。古い公民館。祖父や祖母に手を引かれて歩いた商店街やアーケード。スケート場。夏の縁日の稲荷神社や友達と駄菓子を食べながらかくれんぼした山澄神社。木造だった頃の佐世保駅。釣りに出かけた池や海。友人とカブトムシを捕りに行った烏帽子岳。途中にあった滝で西瓜を冷やして水遊びしたこともあったっけ。
目を閉じて思い浮かべると「そういや今と違ってあんなのがあったな~」と懐かしくなってくる。
道路や建物は今より大分汚かったけど、街は活気があり、山の緑や海の青が映え、自然と共存できた古き良き港町だった。

さて、この「ふるさと」という歌だが、今の小学校学習指導要領で「共通教材」」とされている6年生の文部省唱歌に指定されている。
しかし、うさぎを山で追ったり、小ぶなを川で釣ったりという風景をイメージできない子どもたちは多い。今と昔で「ふるさと」のイメージにだいぶズレがあることは確かだ。
そんな中、「ふるさと」の歌詞の続きを作ろうという試みが首都大学東京の授業と母校私立麻布高校の授業で行われている。まず、「ふるさと」の歌詞から読み取れる日本の風景を挙げ、他の唱歌の詞を季節や道徳、日常などに分類する。さらに、森山直太郎の「さくら」など現代の歌が、今の日本をどう表現しているかを確認していく。それをもとに歌詞づくりに取り組む。
21世紀の日本のイメージを探るのが狙いだが、子どもたちが描くのは、ビルが林立し、ネットで繋がり合う情景ばかりだ。「ふるさと」は「春の小川」や「虫のこえ」などの季節を歌った唱歌と異なり、普遍的で牧歌的な故郷のイメージを描いている歌なだけに、歌の原風景は遥か彼方まで遠ざかっている。

麻布高校の生徒がつくった「ふるさと」の続きをいくつか紹介したい。

都会色に 染められ
身も心も モノクロ
人の波に のまれて
どこに行った ふるさと

メールします 今どこ
つぶやきます 家なう
各地に広がる ネットワーク
つながり合う ふるさと

混む電車で 出勤
夜遅くに 残業
ただひたすら 働いて
先の見えぬ ふるさと


お先真っ暗な「ふるさと」ばかりが並んでいる。
普遍的な自然の情景だった歌の面影がまるでない。
「ふるさと」をほとんど知らない現代の都会の子ども達が、今の社会を痛烈に皮肉るとは。
やはり、人間は本能的に自然のある「ふるさと」を求めているのだろうか。

これらの「ふるさと」を聞いてピンと来るものがある。
皮肉を含む替え歌で、私が一番印象に残っている歌だ。


コンクリート・ロード どこまでも 森を切り 谷を埋め 
West Tokyo Mt. Tama ふるさとは コンクリート・ロード♪

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ちょっと珍しい画像に驚く人もいるかと思うが、私の大好きなジブリ映画の一つ「耳をすませば」は、1995年7月15日公開された、近藤喜文監督の「最初で最後の監督作品」である。
物話は雫と聖司による恋の青春群像劇であるが、中学3年生の雫が書いたこの皮肉たっぷりな「コンクリート・ロード」は的を得過ぎていて笑えない。
本作の背景美術は東京都多摩市と同武蔵野市を中心として描かれており、実際の街並みなどは主に東京都を走る京王線沿線の聖蹟桜ヶ丘駅周辺をモチーフとしている。
冒頭、「TAKE ME HOME COUNTRY ROADS」が流れる時、バックの背景には多摩地方から都心を望む夜景が映る。実はこの夜景、「平成狸合戦ぽんぽこ」のエンドロール最後のシーンでもある。狸が住みかを奪われた多摩、その多摩ニュータウンに雫と聖司は住んでいるという繋がりもあって面白い。

「平成狸合戦ぽんぽこ」で多摩の森が奪われ、コンクリート・ロードになってしまった「耳をすませば」の1995年の西東京の「ふるさと」の風景が物語るものは大きい。
そこから15年以上が過ぎた今も、自然やそこに住む生物を無視したコンクリート社会が形成され続けている。このまま見過ごしていいのであろうか。人は無意識の中で都市に疲弊し、本能的に自然を求めている。
少し不便でも、少し汚くても、トトロの森に住むサツキとメイの生活を「ふるさと」だと感じ、憧れを抱く人は多い。
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「昔に戻れ」とは言わない。それは懐古主義であり、そこから発展は望めないからだ。
私は「昔を知れ」と言いたい。温故知新。常に新しさとは古きものから生み出される。
昔から自然と共存して生きてきた人間の生活を見つめ直し、自然と共存できる新たな街づくりをしていかなければならない。自然環境や人の心身に良い街づくりには整理が必要だ。良いものや必要なもの、伝統あるものは残し、不要なものや危険なものとはすっぱり手を切り、処分する。そのための科学技術こそが人間の英知の結晶であるといいたい。


話は変わり、先日の新聞で良い記事を見つけた。広島県福山市の鞆の浦架橋撤回という話だ。
万葉集にも詠まれる広島県福山市の鞆(とも)の浦は、瀬戸内海に面した景勝地だ。アニメ映画「崖の上のポニョ」の舞台とされ、宮崎駿監督が2カ月滞在して構想を練った場所でもある。

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鞆の浦地区は車の離合が困難なほど道路が狭く、高齢化や人口減も進んでいる。地域活性化を目指して県が架橋計画を発表したのは、約30年前に遡る話だ。この間、地元では賛否をめぐる対立が続き、結果的に下水道や防災など生活インフラ整備が遅れた。架橋建設を求める声は、福山市をはじめ住民の間には根強く残っていた。
その鞆の浦の埋め立て架橋事業をめぐり、反対派住民らが計画阻止のため起こした訴訟で、広島地裁が公共事業にストップをかける判断を下したのは2009年10月のこと。当時の判決は、鞆の浦の景観を歴史的、文化的に価値がある「国民の財産」と評価して住民の景観利益を認めた画期的な判決と言われた。それに対し、広島県は判決を不服として控訴していた。
あれから約2年8カ月、県が大きな決断を下した。湯崎英彦知事は、現行計画を撤回して景観への影響が小さい山側にトンネルを整備するという方針に変えた。知事は「埋め立て架橋では景観を元に戻すことが不可能になる。トンネルは生活の利便性と景観保全を両立でき、住民ニーズを最もバランス良く満たす」と説明。
一審判決が計画撤回のかじ取りになったことは言うまでもない。
公共工事はとかく、「一度決めたら止まらない」といわれる。それでも、県が当初方針にこだわらず、反対派と推進派双方の接点を探りながら、現実的な対応をした点は称賛に値する。中でも注目したいのは、県の控訴後に就任した湯崎知事が「住民ニーズを探りたい」として推進派と反対派の住民による協議会を10年5月に設置し、双方の意見を聞きながら判断に至ったという点だ。
協議会は今年1月までに計19回開かれ、県の架橋案のほか、地区中心部を迂回(うかい)する山側トンネルや海底トンネルなど計5案を示し、住民意見を集約。そして導き出されたのが、中心部の混雑解消を図る道路整備と、景観保全との両立を望む点では共通する、との結論だった。住民の願いをかなえるために選んだのが山側トンネル案であった。

景観論争では、どうしても開発か保全かの二項対立に陥りがちである。両方の声を生かす道を探ることこそが重要であると考えさせられる良い例だ。地元民の声を丁寧に拾い、その結果として進められる事業の責務を背負うのが、行政機関の本来の役割だろう。県が計画当初段階から景観を保ちながら利便性を高める努力をしていれば、話はここまでこじれなかったはずだ。
これは広島県だけの問題ではなく、日本国全土に言える問題だ。
05年の景観法施行後、九州各地でも街の風情や自然景観を守る動きが高まっている。
多様な選択肢を示したい。見直すべきものは見直し、色々な視点から議論を掘り下げていく。
今回の事例は、「ふるさと」を守りたいと願う他の自治体にとっても大いに参考になるはずである。
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by komei115 | 2012-06-28 23:01 | Nature&Science