青い果実の実る頃には

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カテゴリ:Movie( 105 )

ネタばれ注意!

少し遅くなったが『未来を生きる君たちへ』という作品について述べたい。
先に述べておくが、あまりに前のことなのでうまく話がまとまらず(私の力不足が大きいが)、散文になってしまった。
伝わらないことが大いにあると思うが、ご了承願いたい。

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この作品は『ある愛の風景』、『悲しみが乾くまで』のスサンネ・ビア監督(デンマーク)の最新作である。
と述べてはいるが、初めて聞く作品と監督であった。私は、北欧の作品はあまり見たことがない。
観るきっかけとなったのは朝日新聞の夕刊に記載されていたから。たまたま広告を発見し、本年度のアカデミー、グローブ賞W受賞ということで興味が湧いたのは事実だが、それ以上にタイトルに惹かれた。
親として、大人として未来を築いていく子どもたちに何を教えることができるのだろうか、何を残してあげられるのだろうか。そんなことを震災後ずっと考えていた私にとってこのタイトルは直感で観ておきたいと思えるものだった。公開初日の早朝に足を運び、初回を見ることができた。
映画が終わった瞬間、朝からわざわざ渋谷まで出向いて良かったと思えた。
それ程感動していた。
テーマが普遍、複雑、難解なため様々な見方ができる映画だが、素直に観たままをありのままに感じ取ることが一番いいだろう。
映画通な人も、そうでない人も是非一度観てほしい作品である。

デンマークのある2組の家族がメインの話である。家族にはそれぞれ問題がある。離婚の方向で話を進めている家庭、母親が癌で死に、父と子で祖母の家で暮らし始めた家庭。それぞれの家庭の子どもたちはどこかしら心に穴が空いている。
そして社会は矛盾で満ち溢れている。様々な考えを持つ人間の集合体であればそれは仕方のないことである。大人は葛藤しながらも割り切り、避けることができる。しかし、子どもたちはその矛盾に戸惑い、失望する。世の中ってこんなもんかと。
矛盾に耐えられなくなった子どもたちは暴力・復讐に走りだす。
目には目を。やられたらやり返す。相手をひれ伏させる。それは誰しもが持つ感情だと思う。しかし、それは動物の本能から抜け出せれない人間の恥ずべき感情である。人間が他の動物と違うところは感情をコントロールできる理性を持っている点である。それなのに暴力を正義と置き換えて正当化する(特に大人は)。改めて正義という言葉の脆弱さを感じる。相手を悪だと言って自分の正義を相手に振りかざす者は偽善者である(また別枠で述べたい)。
では暴力に対する対応をいかにすれば良いのであろうか。復讐・暴力がだめなことなら、赦し、赦されることが正しいのだろうか。
先にも言ったが暴力・復讐といった感情は誰にでもある。もし、自分の大切な人が傷つけられても、加害者に暴力を振るわず平然と赦せるかと言ったら私にはできない。殺したいほど憎むであろうし、法律がなかったら復讐するかもしれない。
しかし、ふと考える。復讐心から憎んでいるとはいえ、相手を傷つけたいと思っている自分の顔を。きっと加害者と同じ汚らわしい顔つきになっているにちがいない。そんな顔で加害者に復讐したところで大切な人がうかばれるのか。そもそも、復讐したところで起こってしまった結果を変わることはできないのだ。
暴力で悩み、苦しむことは本当に辛いことである。そこから逃げ、一時の感情で復讐することは楽だろう。しかし、自分の手を、心を汚すことであり、本当の解決にはならない。
その苦しみや悩みに耐え、乗り越えることで救われることもあると信じたい。赦しが正しいかどうかというより、何が起こっても、それでも生き続けていくのだと思うことが人間の強さではないだろうか。

これから先の未来に何が待ち受けているのかはわからない。その中で何が起こっても生き続ける強さ。それは人間の選択・決断する力にあると思う。
「ヒーローショー」という井筒監督の作品をご存じだろうか。若手芸人のジャルジャルが主演を務めている。
このストーリーも暴力が復讐という暴力を生む点で似ているのだが、誰も復讐に疑問を抱く者が出ず、最終的には取り返しのつかないところまで来てしまったという救いようのなさに何とも言えない後味の悪さを覚えた。

この作品の良さは、主人公を通し暴力に対し暴力で返していいのかという葛藤を観客に想起させたこと。そして、その後の決断と、その決断を受け入れる周囲の人々を最後に見せたことにある。だから話の終盤に救いを感じさせられた。
下した決断の正しかった結果として希望が生まれたではなく、決断することで主人公たちが前進していく姿に私は一縷の希望を見出し、胸打たれたのだ。
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by komei115 | 2011-11-30 01:54 | Movie
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ネタばれ注意!


つい先程、品川プリンスシアターのレイトショーにて「アントキノイノチ」を見てきた。

まず一言。色んな意味で残念。
見終わった瞬間は、監督、宣伝スタッフ、客に対する憤りすら感じてしまったほどだ。


見る前に不安を抱いていた岡田将生、榮倉奈々の演技は思いのほか上手だった。特に岡田将生は顔の表情が豊かで主人公の不安そうな目の動き、感情の起伏の激しさ、吃音をもどかしそうに言う表情、はとても繊細に表現しており感心した。他のキャストにしても同じ。
やはりフィクションであり、物語であるので、小説ではすんなり受け入れられるものであっても、映像として見るとどうしても説明口調になったり、臭いセリフが出て変な感じになってしまうのは映画の宿命であると思う。
しかしながら、役者達が言葉に「間」を持たせたり、考えて言葉を絞り出してるような表情をすることで、リアルに近づけていく。この作品ではそのことを改めて感じさせられた。
カメラの撮り方にも注目したい。固定して撮らず、まるで手持ちのホームビデオで撮っているようで、仕事現場などでは臨場感が出ていてとても良かった。

問題は作品自体の構成である。
私は、見る前から予告などを通して、小説とは全くの別モノで考えなければという思で映画に臨んだつもりだ。
だから、榮倉奈々演じるゆきちゃんが小説では居酒屋で働く娘だったのが、映画では遺品整理屋の一員としてすでに働いていることも死去した人たちのケースが所々変わっていたことにも目を瞑ることができた。だから一人の人の死を通して、柄本明が後悔するシーンには感動したりもした。
そう、この話の一番の醍醐味はそこにある。
しかし、なぜこうも話の内容を大幅に変えてまで客を泣かそうとしてしまったのか。その上、一番伝えなくてはならない遺品整理業という仕事、独居死と家族の関係性の希薄化の問題、その仕事のおかげですべての命の上に自分たちが存在し、出逢っていることに気づく主人公などがあまり描かれていなかった。
また、高校時代の出来事も、小説みたいな繋がりがなく、登場人物一人一人に感情移入することができなかった。だから、カッターナイフで殺し合おうとする永島と松井、それをあっけらかんとした表情で見守る多くの学生たちのシーンは正直「何これ?」と思って見てしまった感がある。
話に広がりがなく、主人公たちだけの視点に収束した物語。私にとっては残酷な結末による悲劇のラブストーリー、それでも前向きに生きていく主人公というチグハグな終わり方にしか映らなかった。
小説のストーリーを忠実に再現するだけでもキャストらの演技だけで十分感動できたはずである。
何故だ。
疑問詞がずっと頭の中にふわふわと漂っていた。
小説のあとがきに書かれてた監督の言葉。この人なら、きっとさだまさし氏のメッセージを汲み取って、別の作品としてでもきっと良作を作ってくれたに違いないと信じていた。
何か裏切られた気持ちがしてならない。
何故、観客はこれを観て啜り泣く音を立てられるのだろうか。
「2011年で一番泣ける映画です」と映画の予告CMで涙を流しながらインタヴューに応える観客たち。
これは陰謀か。彼らはさくらなのか。
きっと小説を読んでいないんだろうなーということは発言から察することができるのだが、そんなに感動するか?と耳を疑う作品であった。
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by komei115 | 2011-11-26 01:39 | Movie
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ネタばれ注意!


映画「ロッキー」シリーズのプロデュースを手掛けたアーウィン・ウィンクラー監督の作品である。
前から、観たいと思っていたが今まで見る機会がなかった。先日たまたまTHUTAYAにCDを借りに行った際に見ようと思い立った。

あらすじ
主人公のジョージは、海が見える崖に立つ、古い家に住む変わり者だった。犬を放し飼いにしたり、崖から海に向かって放尿するなど、近所からは煙たく思われている。
ある日、彼に二つの不幸の宣告が。長く勤めていた建築設計事務所からは突然解雇を告げられ、突然倒れて運ばれた先の病院では余命1カ月の癌であることを告げられる。
病院から帰ったジョージは考える。このままではだめだと。
離婚した妻とのこと、理解し合えない、手がつけられない一人息子サムとのこと、壊したいほど嫌いな家に住み続けている自分のこと。
そして決意し、妻と息子にこの一夏は、サムと二人でジョージの家で過ごし、その古い家を立て壊し、新しい家を建てるつもりだと告げる。ドラッグとパンク音楽が好きな息子は、父の突然の提案に猛烈に反対するが、ジョージは譲らず無理やり息子と同居を始める。
汚いガレージでの父子の生活を強いられ、争いの絶えない二人だったが、家を作っていくにあたって二人の、彼らを取り巻く人々の想いが変わり始める。(一部ウィキペディア参照)


この映画から感じたことは二点ある。
破壊することの大切さ
抱きしめることの大切さ
である。

一点目だが、この映画は物を破壊するシーンが多い。
ジョージは解雇を告げられた日、会社で自分が長年作った建築モデルを片っ端から壊す。また、サムと一緒に自分の家を壊す。
怒りのままに、色んな感情を体全身に乗せて物を叩き、潰し、壊す。始めはもったいないなーと思って見ていたのだが、なんだか見ているとこっちまでスカッとする気持ちになった。モノに囲まれた生活をする私にとって「空っぽになる」や「空虚さ」の感覚がとても新鮮だった。
モノはいつか劣化、老朽し、壊れる。モノはただのモノでしかない。そうとわかっていながら、人は記憶しておきたいがために大切に記録、保存しようとする(私もモノを捨てられないその一人だ)。しかし、モノを貯め込み過ぎるとかえって消化不良を起こしたり、モノが人の心を腐敗させてしまう。
縁を繋ぎとめておくことは大切である。しかし、時には断ち切ることも大切なのである。人も、モノも。
破壊は決して悪いことではない。腐敗は周りに悪影響を及ぼすが、破壊は新たな創造のスタートとして前進できるのだ。
モノに対しては、自分の手での破壊という行為が最良である。自分が愛用してきたモノの歴史に想いを馳せながら壊し、処分しよう。どうしても記録しておきたいのであれば、その物があったことを示す写真を取って、小さくして保存すればいいのだ。
そういう風に述べた私自身、早くロフトに溢れた数々のモノを自分の手で処分しなければ。断捨離の精神を持って「無」をつくりだそう。

二点目。ジョージは息子と、妻と、家造りに関わってくれた人たちとハグをする。抱きしめ合う。日本ではなかなかお目にかかれないことだ。気恥ずかしいという思いがあるのだろう、特に異性同士では滅多なことがないかぎり他人同士で抱き合うという行為はないのではないか。文化の違いである。
しかし、観ていてとても温かく、愛を感じてしまう。言葉だけでは絶対に伝えられない、表面的な感情を超えた何かがその行為の中にある。
人は決して理解し合えない。だけど、抱き合い、体を触れ合わせる行為の中で、何かを共有し、一つになれたという喜びを見出せることができる。心安らぐ、まさに人を安心させる最良の方法ではないだろうか。その意味でハグはとても大事なことだと思った。


最後に感動したシーンをどうしても書いておきたい。

お互いの存在を認められるようになってきた時、ジョージはサムに自分が癌であることを告げた時。
息子サムは泣き叫んでこう言う。
「あんたはとんだクソ野郎だ!俺を騙してたのかよ。自分の夢を叶える為に、俺に好きになってもらうように!」
それに対し、ジョージは「違う・・・。愛してほしかったんだ」と。
サムが最後に「そうか、よかったな!願いが叶ったんだからよ!」といってガレージを飛び出した。
どうでもよかった父親だった。自分さえよければいいと思っていたはずだった。
それなのに、父と向き合い、父を憎む自分と向き合い、父を、自分を認められるようになった。父の存在の大きさを知り、大切だと思えるようになった。気付いたら、彼女の家の階段でぼろぼろと泣き崩れている自分がいた。
私は、その感動的で残酷なシーンにすっかり打ちのめされてしまった。今も、思い出しては心が震えてしまうのだ。

きっとサムは未来の子供に自分の父親の話をするときにこう言うんじゃないだろうか。
「親父のことは殺したいほど憎んでいたが、同時に愛しすぎていたんだ。」
サムに語ったジョージと同じように。
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by komei115 | 2011-11-25 18:01 | Movie


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宮崎五郎監督の第2作目の映画『コクリコ坂から』を観た。
1作目の『ゲド戦記』はとても残念なものだった。題材は良かったと思うが、その題材の世界観を90分のアニメで表現しきれていなかった。結局何を伝えたいのかテーマが絞り切れておらず、観ている方は終始置いてけぼりをくらっている感じが強かった。
それだけに2作目には期待していた。
キャストは岡田准一、手嶌葵、香川照之、内藤剛志、風吹ジュンと1作目に出ていた人物が多かっただけに驚いた。加えて長澤まさみ、竹下景子、石田ゆり子などが名を連ねている。

あらすじは、東京オリンピックの開催を目前に控える高度成長期の日本の横浜が舞台。その横浜の高校では、明治時代に建てられた由緒ある建物カルチェラタンを取り壊すべきか、保存すべきかで生徒と教師の間で論争が起きていた。高校生である海(長澤まさみ)と俊(岡田准一)は、そんな事件の中で出会い、心を通わせるようになる。さまざまな価値観が交錯する戦後を背景に、現代を生きることの意味を見つめていくストーリーである。

観て最初に感じたことはこの監督は懐古主義なのかなということだった。
確かに歴史を紐解くのは今を、未来を切り開いていく上でとても大切なことである。
しかし、この作品から感じたものは「昔は良かった」と、そして今に対する説教みたいなものを感じた。特に、今の若者に対する活力のなさを感じてか至極対称的に描いたと思われても仕方がないようなくらい闘争心、エネルギーに満ち溢れた血気盛んな若者達がこれでもかと描かれている。
ある日の朝日新聞の夕刊で「昔は良かっただけを描きたくはない」と発言していたが、この作品を見た限りでは「上を向いて歩こう」の坂本九の歌が合うくらい(実際に作中にも使われている)皆が上を向いて歩けていた時代がそこにはあったんだと言っているような感じを受ける。
また、ストーリーにおいても正直私は『耳をすませば』の方が好きだ。一人の少女が恋をして、傷き悩んで、苦しんだことで一歩前進する過程は非常に似ている。しかし、思春期特有の苦しむ過程というものにおいて時代の違いはあるものの『耳をすませば』の方が観ている方にも伝わる。

以上、批判ばかりを述べてきたが、この映画を見て若者らしさとは、この時代の生きづらさとは何かを考えるようになった。その点においての問題提起を与えてくれたのには評価に値する。

その二点についての記述は別の形でまた後日書きたい。
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by komei115 | 2011-08-03 01:02 | Movie



1997年度に公開された宮崎駿監督作品である『もののけ姫』。日本全国で大ブームとなり、社会現象にもなった。当時小学4年生だった私は、公開してから父、母、姉の4人で映画館に見に行った思い出がある。家族4人揃って映画館で映画を観たのはこの作品しか記憶がない。したがって私にとってジブリ映画の中で最も思い入れの強い作品である。これまでにこの作品を見た回数は20回を軽く超す。それでもなお飽きることはない。

『もののけ姫』を通して監督が私たちに訴えるもの。小学生の私には全く理解が及ばず、ただ戦闘シーンが恰好よかった、気持ち悪かったなどの感想しか抱けなかった。今でこそ注意深く映画を見たり、他の作品と見比べたりすることで監督の意図が少しずつわかるようになってきたが、それでも難関複雑なのには変わりがない。
分かる範囲でテーマを挙げるとするなら四点ある。
一点目に少年少女と人間社会との関係について。
人間社会の自然破壊が原因で生まれたタタリ神によって病に侵されてしまうアシタカ。人間社会に捨てられ、もののけに育てられたサン。社会に翻弄された少年少女の不遇な運命は彼らの心を空洞化させる。
二点目に不条理な病と差別について。
アシタカやサンもそうだが、身分による差別、病による差別など数多くのシーンで差別がある。たたらばという村にはハンセン病らしき人間が多く、差別を受けてきた人間達の話がでる。
三点目に自然と人間の関係性。
互いに嫌悪し、殺し合うもののけと人間。生きるために憎悪と殺戮に走り、自然を破壊していく人間は、自然によって生かされていることを忘れてしまっている。それでも自然は人間の業すべてを許し、包み込む。
四点目に畏怖の心と合理主義の対立。
シシ神という自然のメタファーである存在に対し人間はそのシシ神殺しに没頭する。エボシはシシ神の首を銃で討ち取った。神秘的な自然現象に対し合理主義を貫こうとする人間は、いつの日か自然を科学が支配できると考え、自然を恐れなくなった今日の人間と重なるものがある。

以上四つの点を挙げたが、重要なのはそれらどの問題に対しても監督は解決策を提示していないことだ。ダイダラボッチになったシシ神は首を取り戻すと破壊行為をやめて森に消えた。エボシはシシ神殺しで腕を失ったものの生き長らえた。サンは人間との共存はできないまま、もののけとして生き続ける道を選び森に帰る。解決不可能な問題を出すだけ出し、後は観客次第という何ともスリリングな終結のさせ方である。
答えは誰にもわからない。科学に突き進む人類の未来にこれから先この問題を解決する日は来ないだろう。
分かることと言えば自然はどんなに破壊されても長い年月をかけて再生し、そして人々、特に子どもたちはどんな状況下でも必死に生きていかなければならないということだ。

3・11に東日本大震災が起きた。地震、津波と天災が起こり、原発問題という人災が起こり、風評被害などの差別が起きた。未曾有の状況の中、私たちには、私自身は何が出来るのだろうか。それは『繋がり』という環に積極的に関わっていく事、そして後世に伝え未来を『繋ぐ』ことだと思う。
人間と、自然と、森羅万象の事象に対して関わり、答えがでないことにもめげずに考える。そして何かしらのアクションを起こす。知り、考え、動く。それは生きることに直結する。
サンを救うため、どんな険しい山路も恐れず全力で走り続けるアシタカの姿が勇ましい。
そして、全てを隠さず伝えること。人間は完ぺきな生物ではないから失敗することだってある。だけど、一度起こした失敗を放置して忘れてはならない。考え、恥ずかしがらずに失敗を認め、打開策を見出していくことが筋だと思う。
現代の子どもたちはどこか今の社会に対して恨んでいるような、諦めているような、苛立ったような、そんな空気を少なからず感じる。これはアシタカ、サンの心の空洞化と似たものを感じる。
子どもたちに大人の背中を見させ、感じ取らせることが私たちの役目ではないだろうか。
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by komei115 | 2011-06-02 00:08 | Movie