青い果実の実る頃には

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日日是思慮 その8

「消えるよ~。消えるよ~」これは「死神」と言う落語の最後のセリフである。天才落語家と言われた立川談志が先日亡くなられた(氏のご冥福をお祈りいたします)。今、私はしみじみと氏の落語を聴いている。落語には疎い私だが、氏の落語は好きで前々からCDで聞いたりしていた。話のまくらで30分以上も話してしまう自由さ。しかし、自由ながら客をここぞというところで笑わせるのは匠の所業である。▼同じ笑いに漫才がある。落語は主に古典を扱うが、漫才は現代の事象についてボケとツッコミを持ってして客を笑わせる。今は笑いと言えば漫才になるのか。漫才で好きなのは爆笑問題である。ブラックユーモアが漂い、風刺的なネタが多い。▼落語にも、漫才にも当てはまらないのがお笑いタレントである(私はそう思う)。コントであったり、モノマネであったり、一発芸であったり。ドリフターズあたりからそういったタレントが増え始めたのではないか。まあ、笑わせ方は自由であるのだから、差別をするつもりはない。しかし、最近は芸の質の低下が顕著にみられる。芸人はいつの間にか人を笑わせるのではなく笑われるような芸が主流になってきた。滑り芸というものがある。笑わせられない芸人を周りがバカにすることで笑わせるものだ。それは笑いと言うのだろうか。滑ってへらへらしてる当人にプライドはないのか。もはやそれは芸ではない。ただの恥さらしだ。▼客はそれを見て面白がる。それは面白いから笑っているのではない。無意識のうちに人をさげすみ、バカにして笑っているのだ。我ら客は笑いたくてお笑いを見るのだけれども、もう少し笑わせられ方に敏感になった方がいいのではないか。▼たまには伝統ある笑いと言うものに耳を傾けてはどうだろうか。落語、漫才。こちらも知識を持っておかないと笑いについて行くのは難しいかもしれない。始めのうちは何が面白いのかわからないこともあるだろう。しかし、旨い笑い話は考えることの楽しさを再発見させてくれる。それを素直に笑えた時、人間の面白さに改めて感心するのだ。▼「死神」の話しは面白いと言うより恐ろしい。死神の話に乗せられ傲慢になる人間。最後には・・・。
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by komei115 | 2011-11-30 19:43 | Column
24/11/2011

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この日は朝からご主人は浮かれていた。彼女が前日から家に泊まっていたからだ。
ちなみに僕は最初彼女に拾われた。そして、父さんと別れ一人で寂しいご主人のためを思って僕をプレゼントしたのだ。
僕はそんな彼女のためにご主人の世話役として頑張って働いてるのだ。
一人暮らしを始めて早7年目。人には一人暮らしの有意義さを上から語るものの、人恋しさには飢えているようだ。
昨夜はクリームシチューを、朝はサンドイッチを彼女のために黙々と作ってもてなす背中が全てを物語っている。
彼女に「もう主夫だね」と褒められ、「たいしたことないよ」というものの顔はにやけている。どこまでカッコつけたがるんだろう。この寂しがり屋さんが。
朝食を食べ、ゆっくりと準備をしていた。どうやら何処かに出かけるらしい。僕もついて行くことにした。
始めに近所の時計屋で止まっていた腕時計を見てもらった。 電池の問題じゃないらしく、修理に出さなければならないらしい。修理か、新しい時計か。どちらにせよ思わぬ出費にご主人は凹んでいた。
そのまま駅に向かう途中に自分が今月ツイてない事を彼女に告げていた。
それがまた薀蓄をひけらかしながら喋るのだ。薀蓄をひけらかすほどの愚かな所業はない。「私はバカです」と自ら言っているようなものである。昨夜の料理といい、そんなに天パーの芸人に憧れをもっているのか。
彼女もそんな話聞かなきゃいいのに。
電車に乗り、20分。着いたのは後楽園だった。 なんと彼女の御厚意で岩盤浴と温泉に入りに行くらしい。しかも無料で。
あれ。さっき今月ツイてないとかいってたばかりだよね、ご主人。
ツイてるじゃないか。十分。何甘ったれたこと言ってんだよ。感謝しろ、感謝。



今日の詩 ~冬の灯~


空気が澄み渡った冬の街に街灯が

キラキラと光っています

街の彼方此方でイルミネーションが

キラキラと輝いています

それらはとても綺麗なのですが

美しくはないのです

そんな時に私は火を思い浮かべます

ロウソクに灯った火

落ち葉に放たれた火

暖炉で燃え上がる火

時に儚げにゆらゆらと

時に勇ましくごうごうと

生命を燃やし

生命を灯す

畏れ大き生命の源

そこから生まれる光が

希望に満ちたその光が

何よりもまして

美しいと思うのです
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by komei115 | 2011-11-30 19:41
ネタばれ注意!

少し遅くなったが『未来を生きる君たちへ』という作品について述べたい。
先に述べておくが、あまりに前のことなのでうまく話がまとまらず(私の力不足が大きいが)、散文になってしまった。
伝わらないことが大いにあると思うが、ご了承願いたい。

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この作品は『ある愛の風景』、『悲しみが乾くまで』のスサンネ・ビア監督(デンマーク)の最新作である。
と述べてはいるが、初めて聞く作品と監督であった。私は、北欧の作品はあまり見たことがない。
観るきっかけとなったのは朝日新聞の夕刊に記載されていたから。たまたま広告を発見し、本年度のアカデミー、グローブ賞W受賞ということで興味が湧いたのは事実だが、それ以上にタイトルに惹かれた。
親として、大人として未来を築いていく子どもたちに何を教えることができるのだろうか、何を残してあげられるのだろうか。そんなことを震災後ずっと考えていた私にとってこのタイトルは直感で観ておきたいと思えるものだった。公開初日の早朝に足を運び、初回を見ることができた。
映画が終わった瞬間、朝からわざわざ渋谷まで出向いて良かったと思えた。
それ程感動していた。
テーマが普遍、複雑、難解なため様々な見方ができる映画だが、素直に観たままをありのままに感じ取ることが一番いいだろう。
映画通な人も、そうでない人も是非一度観てほしい作品である。

デンマークのある2組の家族がメインの話である。家族にはそれぞれ問題がある。離婚の方向で話を進めている家庭、母親が癌で死に、父と子で祖母の家で暮らし始めた家庭。それぞれの家庭の子どもたちはどこかしら心に穴が空いている。
そして社会は矛盾で満ち溢れている。様々な考えを持つ人間の集合体であればそれは仕方のないことである。大人は葛藤しながらも割り切り、避けることができる。しかし、子どもたちはその矛盾に戸惑い、失望する。世の中ってこんなもんかと。
矛盾に耐えられなくなった子どもたちは暴力・復讐に走りだす。
目には目を。やられたらやり返す。相手をひれ伏させる。それは誰しもが持つ感情だと思う。しかし、それは動物の本能から抜け出せれない人間の恥ずべき感情である。人間が他の動物と違うところは感情をコントロールできる理性を持っている点である。それなのに暴力を正義と置き換えて正当化する(特に大人は)。改めて正義という言葉の脆弱さを感じる。相手を悪だと言って自分の正義を相手に振りかざす者は偽善者である(また別枠で述べたい)。
では暴力に対する対応をいかにすれば良いのであろうか。復讐・暴力がだめなことなら、赦し、赦されることが正しいのだろうか。
先にも言ったが暴力・復讐といった感情は誰にでもある。もし、自分の大切な人が傷つけられても、加害者に暴力を振るわず平然と赦せるかと言ったら私にはできない。殺したいほど憎むであろうし、法律がなかったら復讐するかもしれない。
しかし、ふと考える。復讐心から憎んでいるとはいえ、相手を傷つけたいと思っている自分の顔を。きっと加害者と同じ汚らわしい顔つきになっているにちがいない。そんな顔で加害者に復讐したところで大切な人がうかばれるのか。そもそも、復讐したところで起こってしまった結果を変わることはできないのだ。
暴力で悩み、苦しむことは本当に辛いことである。そこから逃げ、一時の感情で復讐することは楽だろう。しかし、自分の手を、心を汚すことであり、本当の解決にはならない。
その苦しみや悩みに耐え、乗り越えることで救われることもあると信じたい。赦しが正しいかどうかというより、何が起こっても、それでも生き続けていくのだと思うことが人間の強さではないだろうか。

これから先の未来に何が待ち受けているのかはわからない。その中で何が起こっても生き続ける強さ。それは人間の選択・決断する力にあると思う。
「ヒーローショー」という井筒監督の作品をご存じだろうか。若手芸人のジャルジャルが主演を務めている。
このストーリーも暴力が復讐という暴力を生む点で似ているのだが、誰も復讐に疑問を抱く者が出ず、最終的には取り返しのつかないところまで来てしまったという救いようのなさに何とも言えない後味の悪さを覚えた。

この作品の良さは、主人公を通し暴力に対し暴力で返していいのかという葛藤を観客に想起させたこと。そして、その後の決断と、その決断を受け入れる周囲の人々を最後に見せたことにある。だから話の終盤に救いを感じさせられた。
下した決断の正しかった結果として希望が生まれたではなく、決断することで主人公たちが前進していく姿に私は一縷の希望を見出し、胸打たれたのだ。
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by komei115 | 2011-11-30 01:54 | Movie
私は眠たい目をこすりながら、黙々と準備を続けた。
かなり大きめのバックパックを買ったつもりなのに、気がつくとパンパンに膨らんでいた。
何かを削らなくては。旅先に不必要な物まで持っていきたがりの私の悪い癖だ。
私の頭の中で会議が開かれる。

私A「本なんか旅先で一冊も読めないだろう」
私B「でもいろんな本を読みたいし。飛行機の時間長いじゃん」
私C「じゃあ間を取って3冊から2冊にしよう」
私D「でも、この中から3冊は厳しいよ」
私E「早くしないと時間が」
私A「大体ハードカバーなんて持って行くなよな。かさばるじゃないか」
私D「わかってるよ。でもこの本今一番読みたい本じゃん」
私C「量を取るか質を取るかだな」
私B「量だろ。その前にカメラ2台なんていらないだろ」
私A「バカ。一台は映像記録、一台は写真記録だ」
私B「バカはお前だ。だからなんで記録に2台いるんだよ」
私C「落ち着けって」
私E「そうだよ、早くしないと時間が」

あー、どうしよう。迷うな。
やっぱり本を置いていこう。いつも本で失敗してきたし。
ってあれ、こんなところにも収納ポケットが。

私全員「よし、全部持ってけ。あとは根性でどうにかしろ」

了解です。

準備が整い、リュックを背負ってみる。
めちゃくちゃ重い。鏡で見てみるとまるでカメみたいだった。
修行中の悟空とクリリンを思い出す。

旅行から帰った頃にはきっと私も3,4メーターくらい跳べるのかな。
そんなバカなことを思い浮かべながら武蔵小山の駅に向かう。
しかし、歩いている途中思った。
なんだかすごく恥ずかしいぞ。
人の視線が気になる。初めての登山スタイルが馴染んでいないせいか。
「登山行く気満々じゃん、あの人」「バッグでか。迷惑じゃん」「きっと、ミーハーな奴だぜ」
そんなことを思われたらどうしようと内心ビビりながら電車に乗り込んだ。

目黒でJRに乗り換え、品川で京急本線に乗り換える。
すでにバッグの重さと不眠の辛さで体がガチガチだった。
それでも、好奇心が勝り、頭は妙に冴えていた。

久しぶりの羽田空港。今回はJAL方面に向かう。
携帯を見ると
「着いたよ」
とのメールが。
電話をして待ち合わせの場所を確認し、その場へ向かう。
彼女は旅行者みたいな出で立ちをしていた。
さすがアパレル。
二人の間にギャップを感じる。
あいさつを交わし、昼食を挿んで、登場の手続を済ませる。
二人での遠出はこれで3度目。慣れたもので安心して機内へと乗り込んだ。
それから約2時間かけて鹿児島までの空の旅。
しばらくは会話を楽しみ、隣りですうすうと寝息を立て始めた彼女を確認するとそこから必死になって読書をする。寝ている暇なんてなかった。こんな重たいバッグを持ってきたのだから、読まないと。
だが、疲れからなかなか頭に入ってこない。
本と格闘しているうちに航空機は鹿児島の地に降り立った。

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鹿児島空港なんて来たの何年振りだろうか。全然風景に覚えがない。
まあ、トランジットだから外には出られないし、見覚えなくてもしょうがないよな。

窓を見ると滑走路に離島行きの旅客機が見える。
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あんな小さい機体に乗るのか。
見たところ30人乗れるか乗れないかぐらいだ。
石垣島に行った時もあそこまで小さくなかったのに。
小さい機体は好きではない。小さくなればなるほど揺れが激しいからだ。
4年前、ドイツからフランスへ向かったときの機内を思い出す。
必要以上に左右に旋回し、体が3,40度傾いたときの恐ろしさは忘れ難い。
フランス語で優雅にアナウンスするのに腹が立った。
機長は極度のサディスティックかそれともドラッグ中毒者か。

トランジットの準備が完了し、今度は屋久島まで約30分くらいのフライトである。
飛行機に乗り込むと、機内はびっくりするほど小さかった。
しかも乗客は私たち含めて3人ってどういうことだ。
すごく不安である。
離陸し、しばらくしてCAのお姉さんがお菓子を配ってくれる。私は鼈甲飴をいただいた。
お姉さんの優しさと飴の甘さに心が落ち着いた。

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窓の外を見ると、奄美大島、種子島、硫黄島が見える(写真は硫黄島)。
今度、奄美大島にも行きたいよなー、なんてことを考えているとすぐに着陸態勢に入るという。
そして、着陸。あっという間の出来事に感じた。まだ口の中でコロコロと飴が転がっている。

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たしか午後4時くらいだっただろうか。
屋久島空港に無事に到着した。石垣島空港を彷彿とさせるような門構えだ。

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構内は古く、田舎の商店みたいな感じである。どこか安心させられる。
これからどうしようか。日が出ているうちにホテルに荷物を置けたら、早速海に入りたい。
そう考えるといてもたってもいられなくなった。

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バスを待つ。普通なら飛行機とバスの時刻はリンクしてあるはずなのだが、大分待たされた。
最初の10分くらいは写真を取っていられたのだが、だんだんイライラしてくる。
二人でもう一度行き先と、下りる場所、ホテルまでの地図を確認しているとようやく来た。

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役場前で下車する。

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道を歩いていると、どこかノスタルジーで、地元の風景を思い出す。
やはり、田舎は良いもんだ。逆に海も山もない都会育ちの彼女はどこか淋しくて不安だと言った。
こんなに育った場所で感じ方が違うもんなのかと不思議に思った。

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登山ショップによって、グッズをレンタルし、ホテルへと向かった。
しばらく歩くと海が見えてきた。
どうやら岩場が多そうで、ビーチは近くになさそうだった。
「あそこで泳いで良い?」彼女にそう尋ねると「やめて」と一蹴された。
どうやら、無鉄砲で我儘な私の発言の連続にイライラしたらしい。
ホテルに着き、手続を済ませて部屋に荷物を置くと、早速着替え、周辺を散策しに出かけようと提案した。
彼女は疲れているみたいだったが、優しく承諾してくれた。
これからどんなことが待っているのだろう。何をしてやろうか。
そんな期待を胸に抱きホテルを出た。
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by komei115 | 2011-11-27 12:14 | Diary
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23/11/2011

今日はご主人がえらく早く起き出したんだ。そして何をしているのかと思えば、いきなり食事を作っているんだ。
目玉焼き、ベーコン、マイタケのバター醤油煮、をそれぞれパンに挟んでいる。あの葉っぱはベビーリーフかな。朝から手の込んだことをしちゃって。鼻歌まで聞こえてくるよ。タッパーに詰めているところを見るとどうやら昼食用らしい。どこに行くんだろう。
僕はバッグに紛れて内緒でついて行くことにした。ご主人はバックに弁当、水、パソコン、ノートなどを詰め込んで朝の八時半に自転車で出発した。すると、途中でご主人の腕時計が止まり、自転車のタイヤがパンクしちゃったんだ。
笑える。普段やらないことを一気にするからこうなるんだ。しまいには雨でも降りだすんじゃないだろうか。ご主人、ただでさえ雨男のレッテルを貼られてるんだから。
途中から自転車を押して汗をかきながら歩くご主人。登山用の大きいバックパックと自転車を押して歩く彼の姿はさぞ道行く人から訝しげに見られたんじゃないかな。
30分後、ある施設に到着した。八雲図書館である。
今日は一日勉強するつもりのようだ。私も見届けてあげよう。
図書館が開館すると、ご主人はパソコンが使える部屋までダッシュで行き、席を取った。そうまでしなくても、今そんな人いなかったんだしさ。落ち着いて。
そして、荷物を机に出すと、本を探しに行ってしまった。
それから全然帰ってこない。
帰ってきたのは4、50分経った頃だろうか。10冊以上はあるかと思われる大量の本を両手に積み上げ、具合が悪そうな顔色で戻ってきた。どうやら、大量の本を選んでいるうちに腹痛をきたしてしまったらしい。
本屋にいくと便意を催してしまうあれだ。単純な坊やだな、全く。
席に着き、お腹をさすりながら読んでいた。そして何がツボにはいったのかわからないが、途中途中で人に気付かれないように誤魔化しながら、しかし確実ににやけている。その姿がバレバレで、ちょっとキモイ。
ちゃんとせえ、ちゃんと。「東京江戸しぐさ」なんか読んで一体どうしたいんだ。
しかし、このペースじゃ全部読みきれないだろ。欲張るからこういうことになるんだ。馬鹿だなぁ、本当。
そうこうしてるうちに気がつけば14時。やっとご主人は昼食を食べに一旦図書館を出た。
しかし、今度は五分くらいで戻ってきた。やけに早い。きっと、作った弁当を人に見られるのが嫌で、そそくさと食べて戻ってきたに違いない。あらら、口元にトマトソースなんかつけちゃって。そういう人なんだよな、この人ってば。
それから閉館の21時までご主人はずっと本を読みつつ、ノートに書き写す作業に没頭していた。
僕も見ていて疲れてしまった。帰りは自転車を押したり、力ずくで漕いだりしながら帰った。ガッタンガッタン上下に揺れるもんだから僕は吐いちまうかと思ったよ。アー気分が悪い。
早く修理に出さないとね、自転車。
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by komei115 | 2011-11-26 01:52
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ネタばれ注意!


つい先程、品川プリンスシアターのレイトショーにて「アントキノイノチ」を見てきた。

まず一言。色んな意味で残念。
見終わった瞬間は、監督、宣伝スタッフ、客に対する憤りすら感じてしまったほどだ。


見る前に不安を抱いていた岡田将生、榮倉奈々の演技は思いのほか上手だった。特に岡田将生は顔の表情が豊かで主人公の不安そうな目の動き、感情の起伏の激しさ、吃音をもどかしそうに言う表情、はとても繊細に表現しており感心した。他のキャストにしても同じ。
やはりフィクションであり、物語であるので、小説ではすんなり受け入れられるものであっても、映像として見るとどうしても説明口調になったり、臭いセリフが出て変な感じになってしまうのは映画の宿命であると思う。
しかしながら、役者達が言葉に「間」を持たせたり、考えて言葉を絞り出してるような表情をすることで、リアルに近づけていく。この作品ではそのことを改めて感じさせられた。
カメラの撮り方にも注目したい。固定して撮らず、まるで手持ちのホームビデオで撮っているようで、仕事現場などでは臨場感が出ていてとても良かった。

問題は作品自体の構成である。
私は、見る前から予告などを通して、小説とは全くの別モノで考えなければという思で映画に臨んだつもりだ。
だから、榮倉奈々演じるゆきちゃんが小説では居酒屋で働く娘だったのが、映画では遺品整理屋の一員としてすでに働いていることも死去した人たちのケースが所々変わっていたことにも目を瞑ることができた。だから一人の人の死を通して、柄本明が後悔するシーンには感動したりもした。
そう、この話の一番の醍醐味はそこにある。
しかし、なぜこうも話の内容を大幅に変えてまで客を泣かそうとしてしまったのか。その上、一番伝えなくてはならない遺品整理業という仕事、独居死と家族の関係性の希薄化の問題、その仕事のおかげですべての命の上に自分たちが存在し、出逢っていることに気づく主人公などがあまり描かれていなかった。
また、高校時代の出来事も、小説みたいな繋がりがなく、登場人物一人一人に感情移入することができなかった。だから、カッターナイフで殺し合おうとする永島と松井、それをあっけらかんとした表情で見守る多くの学生たちのシーンは正直「何これ?」と思って見てしまった感がある。
話に広がりがなく、主人公たちだけの視点に収束した物語。私にとっては残酷な結末による悲劇のラブストーリー、それでも前向きに生きていく主人公というチグハグな終わり方にしか映らなかった。
小説のストーリーを忠実に再現するだけでもキャストらの演技だけで十分感動できたはずである。
何故だ。
疑問詞がずっと頭の中にふわふわと漂っていた。
小説のあとがきに書かれてた監督の言葉。この人なら、きっとさだまさし氏のメッセージを汲み取って、別の作品としてでもきっと良作を作ってくれたに違いないと信じていた。
何か裏切られた気持ちがしてならない。
何故、観客はこれを観て啜り泣く音を立てられるのだろうか。
「2011年で一番泣ける映画です」と映画の予告CMで涙を流しながらインタヴューに応える観客たち。
これは陰謀か。彼らはさくらなのか。
きっと小説を読んでいないんだろうなーということは発言から察することができるのだが、そんなに感動するか?と耳を疑う作品であった。
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by komei115 | 2011-11-26 01:39 | Movie

Fredericks soliloquy ~No.1

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21/11/2011

やあ。僕はフレデリック。
僕はご主人の今の相棒さ。ご主人にとったらただのぬいぐるみにしか見えてないだろうがね。
僕の前に相棒が一人いたみたいなんだけど、彼は屋久島の自然が気に入っちゃったらしく、そこで暮らすことを決めてお別れしたんだって。まぁ、それが僕の父さんなんだけど。だから僕は二世ってわけだ。
これからちょくちょくこのブログに僕とご主人の日常やその日考えた詩を綴っていこうと思ってるから見てくれると嬉しいな。よろしくね。



今日の詩 ~青い果実の実る頃には~


青い果実の実る頃には

心に春の息吹が訪れましょう

青い果実の実る頃には

新しいイノチの躍動を感じられましょう

しかし、実をつけるのは大変なのです

種を植えなければなりません

芽を出さなくてはなりません

根を張らなくてはなりません

幹を、枝を伸ばさなくてはなりません

葉を茂らせ、花を咲かせなくてはなりません

実をつけてくれるその日が来るまで

じいとじいと

辛抱強く待ちましょう

想いを馳せて

たっぷりと光を与え、水を与え、大地を与え

焦らず焦らず

じいとじいと

by Frederick
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by komei115 | 2011-11-25 18:08
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ネタばれ注意!


映画「ロッキー」シリーズのプロデュースを手掛けたアーウィン・ウィンクラー監督の作品である。
前から、観たいと思っていたが今まで見る機会がなかった。先日たまたまTHUTAYAにCDを借りに行った際に見ようと思い立った。

あらすじ
主人公のジョージは、海が見える崖に立つ、古い家に住む変わり者だった。犬を放し飼いにしたり、崖から海に向かって放尿するなど、近所からは煙たく思われている。
ある日、彼に二つの不幸の宣告が。長く勤めていた建築設計事務所からは突然解雇を告げられ、突然倒れて運ばれた先の病院では余命1カ月の癌であることを告げられる。
病院から帰ったジョージは考える。このままではだめだと。
離婚した妻とのこと、理解し合えない、手がつけられない一人息子サムとのこと、壊したいほど嫌いな家に住み続けている自分のこと。
そして決意し、妻と息子にこの一夏は、サムと二人でジョージの家で過ごし、その古い家を立て壊し、新しい家を建てるつもりだと告げる。ドラッグとパンク音楽が好きな息子は、父の突然の提案に猛烈に反対するが、ジョージは譲らず無理やり息子と同居を始める。
汚いガレージでの父子の生活を強いられ、争いの絶えない二人だったが、家を作っていくにあたって二人の、彼らを取り巻く人々の想いが変わり始める。(一部ウィキペディア参照)


この映画から感じたことは二点ある。
破壊することの大切さ
抱きしめることの大切さ
である。

一点目だが、この映画は物を破壊するシーンが多い。
ジョージは解雇を告げられた日、会社で自分が長年作った建築モデルを片っ端から壊す。また、サムと一緒に自分の家を壊す。
怒りのままに、色んな感情を体全身に乗せて物を叩き、潰し、壊す。始めはもったいないなーと思って見ていたのだが、なんだか見ているとこっちまでスカッとする気持ちになった。モノに囲まれた生活をする私にとって「空っぽになる」や「空虚さ」の感覚がとても新鮮だった。
モノはいつか劣化、老朽し、壊れる。モノはただのモノでしかない。そうとわかっていながら、人は記憶しておきたいがために大切に記録、保存しようとする(私もモノを捨てられないその一人だ)。しかし、モノを貯め込み過ぎるとかえって消化不良を起こしたり、モノが人の心を腐敗させてしまう。
縁を繋ぎとめておくことは大切である。しかし、時には断ち切ることも大切なのである。人も、モノも。
破壊は決して悪いことではない。腐敗は周りに悪影響を及ぼすが、破壊は新たな創造のスタートとして前進できるのだ。
モノに対しては、自分の手での破壊という行為が最良である。自分が愛用してきたモノの歴史に想いを馳せながら壊し、処分しよう。どうしても記録しておきたいのであれば、その物があったことを示す写真を取って、小さくして保存すればいいのだ。
そういう風に述べた私自身、早くロフトに溢れた数々のモノを自分の手で処分しなければ。断捨離の精神を持って「無」をつくりだそう。

二点目。ジョージは息子と、妻と、家造りに関わってくれた人たちとハグをする。抱きしめ合う。日本ではなかなかお目にかかれないことだ。気恥ずかしいという思いがあるのだろう、特に異性同士では滅多なことがないかぎり他人同士で抱き合うという行為はないのではないか。文化の違いである。
しかし、観ていてとても温かく、愛を感じてしまう。言葉だけでは絶対に伝えられない、表面的な感情を超えた何かがその行為の中にある。
人は決して理解し合えない。だけど、抱き合い、体を触れ合わせる行為の中で、何かを共有し、一つになれたという喜びを見出せることができる。心安らぐ、まさに人を安心させる最良の方法ではないだろうか。その意味でハグはとても大事なことだと思った。


最後に感動したシーンをどうしても書いておきたい。

お互いの存在を認められるようになってきた時、ジョージはサムに自分が癌であることを告げた時。
息子サムは泣き叫んでこう言う。
「あんたはとんだクソ野郎だ!俺を騙してたのかよ。自分の夢を叶える為に、俺に好きになってもらうように!」
それに対し、ジョージは「違う・・・。愛してほしかったんだ」と。
サムが最後に「そうか、よかったな!願いが叶ったんだからよ!」といってガレージを飛び出した。
どうでもよかった父親だった。自分さえよければいいと思っていたはずだった。
それなのに、父と向き合い、父を憎む自分と向き合い、父を、自分を認められるようになった。父の存在の大きさを知り、大切だと思えるようになった。気付いたら、彼女の家の階段でぼろぼろと泣き崩れている自分がいた。
私は、その感動的で残酷なシーンにすっかり打ちのめされてしまった。今も、思い出しては心が震えてしまうのだ。

きっとサムは未来の子供に自分の父親の話をするときにこう言うんじゃないだろうか。
「親父のことは殺したいほど憎んでいたが、同時に愛しすぎていたんだ。」
サムに語ったジョージと同じように。
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by komei115 | 2011-11-25 18:01 | Movie
先に述べておきたいことがあります。久しぶりにブログを再起したので(忙しいことを理由にサボっていました。すみません。)それまでにあった日々の出来事を書いていこうと思います。したがって、今後数回の日記に関してはかなり前(1~2ヶ月前)のことになるのでご了承願いいたします。
同時に写真も別の項目として新設し、アップしていこうと思うので、見てもらえれば幸いです。

では、本編に移りたいと思います。





その日の夜はどうしても眠れることができなかった。屋久島が、縄文杉が私を待っていると思うと、ベッドの中でいつまでも、そわそわと、寝返りを、寝返りを、打ちまくっていた。そして午前3時をまわった頃。もうここらへんで寝ておかないとさすがにまずいと感じた私は、賭けに出ることにした。

「よし、本を読もう」

私はよく寝る前に本を読む。いや、本を読むと眠くなる。本がつまらないのか、または私に集中力が足りないのか。まぁ、後者なのであるが。
早速、ソファに置いておいた4,5冊の本の中から適当に1冊を選び出し、手に取った。同時に枕もとの明かりを灯し、見てみるとJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」である。

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ほう、これは我ながらなかなか良いチョイスではないか。

その本は買ってすぐの頃に少しだけ読んでいた。しかし、どうも作品の世界観が掴みづらく、加えて昔の翻訳で分かりづらかったので、すぐに途中で読むのを断念し、しばらく読み止めていたのであった。いや、読み止めていたのではない。あわよくばそのまま読み終えたことにしようと思っていたのだ(なんとも卑怯なやつだ!)。

しめしめ、これを読んでいればきっとすぐに眠たくなるぞ。

そうして私は意気込んで読み始めたのだった。
確か、主人公はホールデン・コールフィールド、こいつだったな。高校生で分けのわからんことをいう奴なんだよな。カッコつけで、無鉄砲で、臆病で、負け犬根性で、口ばかり達者で・・・。

・・・。

はっとした。
それは私自身のことではないか。
ごめんよホールデン。僕は君の批判なんて言える立場じゃなかったんだ。
気がつくと私は物語の主人公に共感してしまっていた(感想は改めて書くつもりだ)。

そしてしばらくして、またはっとした。
鳥の囀る音に。
辺りが明るくなっていることに。
いつのまにか本を読み終えてしまったことに。

時計を見ると6時を指していた。
それは0時半の間違いではなかった。

よし、今日はオールだ。
体は、特に瞼が重かったが、なぜかしら心は軽かった。
そうして私は旅支度を整え始めたのだった。
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by komei115 | 2011-11-23 01:03 | Diary

日日是思慮 その7

「必ず俺がこの事件のトリックを暴いてやるぜ。じっちゃんの名にかけて」金田一少年の事件簿での主人公金田一はじめの名セリフである。子どものときアニメもよく見ていたが、鮮明な記憶として残っているのはなんといっても堂本剛主演の実写ドラマ版である。すべてのシリーズ、テレビスペシャル偏、映画、すべて見ており、内容も犯人もほとんど覚えている。▼偶然YOU TUBEでドラマ版の一部を久しぶりに観てしまうと、そこからハマってしまい、第一シリーズをすべて見てしまった。ストーリーによっては12,3年ぶりに観るのもあった。登場人物、風景、言葉のどれをとっても懐かしかった。▼しかしながら、なぜあんなにも心が晴れ晴れとするのだろうか。ミステリー、サスペンス、ホラーのオンパレードだというのに、番組の始まりや終りの堂本剛とともさかりえ、故人古尾谷雅人の三人のくりなすおちゃらけた会話は、見ていてほっこり安心させられる。またその時の青空が実にきれいなのだ。見ているといつの間にか小学校2,3年の頃に戻って、わくわくしながらテレビにかじりついている自分がいた。▼昔のドラマはおもしろい。少し大袈裟な演技、クサいセリフ、単純な演出にかかわらずつい引き込まれてしまう。今のドラマの方がクオリティは上のはずなのに、どうしてだろうか。それは、メディアの規制が進んだことが大きい。昔のドラマ、番組、ドキュメンタリーは今のメディアの放送コードに引っかかることを平気でやっていた。豪快、残虐な殺人映像、エログロ、人間の汚い部分などがゴールデンタイムでよく映し出されていた。今は子どもに悪影響だ、何だといって映像化できないことが多くなった。▼それは本当に悪影響なのか。確かに金田一少年の事件簿でいえば、殺人で生首がさらされたりする映像は子どもの頃の私にとってトラウマだった。しかし、同時にグロテスクな、ショッキングな映像が今の私にブレーキをかけているのだと思う。好奇心旺盛だが極度の怖がりであった私は父や母、姉と一緒にしか見られなかった。久しぶりに見ていると子どものときにビビって見ていたという記憶が蘇る。その記憶が大事なのではないかと思うのだ。見ているだけで痛くなるような犯行の様子、人の豹変振り、恐ろしいと思う映像は「畏れ」という教訓になる。▼今のテレビははっきり言っておもしろくない。自由さがない。ドラマはある時点を境目に全く見なくなてしまった。もう少し、社会の崖に落ちるか落ちないかの瀬戸際の作品を生み出す挑戦を続けるメディアがあってもいいのではないだろうか。
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by komei115 | 2011-11-21 13:47 | Column