青い果実の実る頃には

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小説に魅せられて ~ 葡萄の生る季節には 八

 
 どうして家の電話番号を知っていたのだろう。幸恵は動揺しなかったのか。
 電話を切ってからも、しばらく頭の中は「なぜ?」という言葉に埋め尽くされ、他のことなど何も考えられなかった。何をどうしたら良いのか皆目見当もつかない。しばらく目の前にある取り分けられた自分のサラダを見つめる。レタスやトマトの上に干からびたジャコが散乱している。ジャコ、じゃこ、雑魚・・・ジャコって何の魚の稚魚なんだろう?
 「おい高津、大丈夫か?」
 幹斗が呆けていると、田嶋が心配そうな顔を浮かべ尋ねてくる。
 そうだ、このまま腑抜けていても仕方がない。幹斗は我に返り、気持ちを切り替えた。
 「…あぁ、すまん。大丈夫だ。ちょっと、抜けなきゃならなくなった」
 幹斗はそう告げると、「あのっ!」と声をかけ、立ち上がった。全員がそれぞれの話を中断し、幹斗に視線が集まる。
 「本日は、僕のために祝杯を挙げて下さり、ありがとうございます。あの…、それなのにこういうことを言うのは大変心苦しいのですが、緊急の用事が入ってしまったため、僕は…お先に失礼させていただきます。本当にすみません」
 「緊急の用事って…まさか、嫁さんに逃げられでもしたか!」
 デスクの山下さんがガハハっと高らかな笑い声を上げ、その言葉に対し「もう、失礼ですよ」などの女性社員たちの声が飛びかう。
 「えーっと、その…」
 幹斗が返答に困っていると、「そーなんですよ。隣りで話聞いていたんですけど、こっちまでヒヤヒヤさせられる始末でして。そういうことなんで幹事の俺からもすみませんが、こいつ、帰してやってもいいですか?」と田嶋が場の空気をできるだけ壊さぬようにへらへらと愛想笑いを浮かべながら気遣ってくれた。
 「高津さん、しっかり!」「何があったかは知らんが、とりあえず謝れ」などの言葉を背に、ペコペコと頭を下げながら席を外す。後ろで田嶋が今後の打ち合わせや、次の連載の内容を決めるために自分も駅まで見送ってくると伝えている。
 本当に田嶋には世話になりっぱなしだと幹斗はつくづく思う。付き合いはそんなに長くはないが、出会ってすぐに意気投合し、今では仕事関係の人の中で一番の理解者であり、数少ない大事な友人の一人でもある。
きっと彼が担当に付かなかったら、今の幹斗は存在していないだろう。それ程幹斗の中で大きな存在となっていた。
 「わざわざありがとうな。俺のためにこんな会まで開いてくれて」
 店を出てから、幹斗は田嶋に向かって言った。本当はもっと気の利いたお礼を言うべきなのだと思ってはいるが、奈何せん言葉が出てこない。未だにアドリブに弱い自分にやきもきしてしまう。
 「いいって。皆だって何かの理由つけて飲みたかったんだよ。こちらこそ、今日は来てくれてありがとう」
 田嶋は照れたように鼻の頭を掻きながら話を変える。
 「でも、実際今回の小説は今までの作品の中でも一番良い出来だと俺は思ってるよ。すでに映画化の話も出てるし、宣伝の方もバッチリやってるから10万どころの騒ぎじゃないぞ。30、いや、50は固いんじゃないかな。『渾然一体のアイロニー』以来だな。そしてそれすらをも超える。きっと」
 「そうか」
 「そうだよ。だから今後は取材とかも多くなるし、色々と大変になるんだから一つ頼むぜ。 後、次回作ももっと良いもの期待してるから。俺個人としては推理系小説を書いてほしいところだけど。アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』みたいなさ」
 「ああ…」
 「お前もっと喜べよ。これで人気作家としての地位も確立出来たんだからさ。きっと幸恵さんも喜んでくれるはずだぜ」
 「そうだよな」
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by komei115 | 2012-01-08 14:05