青い果実の実る頃には

komei115.exblog.jp

項目に分けて日々思ったこと、書きたいことを自由に書いてます。意見、批判するコメントは大歓迎です。個人的な問い合わせはこちらまで。koumeipart115@yahoo.co.jp

ブログトップ

小説に魅せられて ~ 葡萄の生る季節には 二六


 そこから先のことを幹斗はよく覚えていない。思い出そうとしても頭の中のテープがそこだけ焼き切れ、不確かなフラッシュ映像が点在するだけである。
 彼の中ではっきりとした記憶が戻った時は、全てが真っ白な病室のベッドの上だった。右腕から伸びた透明なチューブは点滴器具へと繋がっていて、聞こえるはずのない液体の詰まったパックから滴り落ちる雫の音が、窓の外で降り続ける雨の音に混じって耳に響いた。横を向くと、目を醒ましたことに喜ぶもどこか顔に陰りのある看護師がいて、その隣ではすでに赤く腫れた目からまた涙を流して「ごめんな」と繰り返しす雅也がいた。父と母、そして兄の姿はそこにはなかった。
 実秋は別の病室で静かに眠っていた。病室は暗く、夏なのに凍える程冷えていて、その中で横たわる彼の心臓は動くのをやめていた。父や母は糸の切れた傀儡のように力なくパイプ椅子に凭れ、目はしきりにどこか遠くを見つめたまま泣くことすら忘れて呆けていた。この部屋の全てが止まっていた。
 そこに存在しなければならない者がいなくなった時、世界は動力源を失ったように停滞した。実秋の体から出た死灰で灰色に染まった町。乾いた町。淀んだ町。雨の音がいつまでも耳から離れない。部屋にある老朽した家具に似合わない真新しい仏壇。中央で白い歯を見せ笑っている写真の中の実秋。その姿よりも成長していく自分の身体。永遠に覚めぬ夢。悪夢。それでも時は経ち非日常は日常へと姿を変えていく。
 歯車が狂ったままの家族からは笑顔と雑談が消え、団欒を失った高津家に雅也が来る回数はめっきり減った。しかし、それでも幹斗とは変わらずに交流を続け、中学に入り、高校に入っても支えていた。そんな中、彼の母が過労で死んだ。両親がいなくなった彼は大阪の叔父夫婦の所に身を寄せることとなり、勝沼の地からいなくなった。頼れる者もいなくなった。
 それからの毎日は、得ることのない楽しい世界をノートに書くことと大阪の雅也に手紙と新しく書いた小説を送ること、そして相変わらず優しい言葉で綴られた雅也からの返事の手紙を何度も読み返すことだけが幹斗の生きがいとなった。高校に入ると親に内緒でバイトを始め、学校では勉強を、家では自室に籠って小説を書く日々。両親とはなるべく顔を合わせず、食事も時間をずらしてとるようになり、長期休みはバイトで貯めたお金で大阪に行き、雅也の住む家に転がり込んだ。
 受験が迫ると幹斗は就職か進学かで迷ったが、どっちにしろ山梨の地を離れたかった。
 「大学に入りたいのなら国立の農学部を受けろ。それか俺の下で働け。それしか認めん」
 それまでろくに話していなかった父から突然言われたその言葉の暴力、圧力には屈したくなかった。助け船を出さない母の黙っている態度が心底憎かった。
 高校三年の夏、大阪難波にある喫茶店で雅也に尋ねてみた。カウンター奥のグラス棚の一画に置かれた小さいブラウン管テレビの中では甲子園球場で高校球児たちが汗と声を枯らして熱闘を繰り広げている。
 「俺は選択する余裕もなかったな。働くしかないって思って卒業し、今こうして働いている。でもさ、俺は高校以上の学がないからさ。大学でいろんなこと学んで、新しい刺激をいっぱい受けたかったなって思うことがあるんだよ。おじさんの会社にも大学卒業の人が毎年来るんだけど、みんなそれぞれ面白い話をしてくれるのさ。それがとっても楽しそうで見ていて正直羨ましい」
 「雅兄も今からでも遅くないんじゃない?」
 「もう遅いよ。高校の内容ほとんど忘れちまったし、おじさんたちに面倒は掛けられない。何より高卒なのに今こうやって働かさせてもらっている恩があるからな」
 「雅兄は偉いね」
 「いやいや、そんなことはないよ。卒業まではやんちゃもしていたしな」
 雅也は笑いながら珈琲を啜ると、一つ咳を払った。
 「しかし、まあ、なんだ。そろそろそんな話が幹斗の口から出るんじゃないかなとは思っていた。だからはっきり言うよ。お前は大学に行け。それも自分が行きたいと思う大学に。お前は俺の進めなかった道を進んでくれ」
 「でも・・・。大学って金かかるしさ、国立入れるか分かんないし、それに」
 「いいさ、どこでも。金のことなら心配するな。俺が何とかしてやる」
 「え!?いや・・・雅兄には頼め」
 「お前には夢があるんだろ。小説家になりたいって夢が。あれだけおもしろい小説を何本も書いて俺に読ませてくれるんだからお前の夢はそうなんだよ、きっと。それなら、大学に行ってもっといろんな奴らと会って刺激を受けて、言葉を学べ。本を読むのが好きなんだから文学部なんかにでも入ってさ。そして何年かかっても良いからじっくり学んで夢を実現させろよ。おまえの夢が叶うのが、俺の夢なんだ。だから俺は前々からお前の大学費用を払うつもりでちゃんと貯めているんだから心配なんかするな」
[PR]
by komei115 | 2012-03-24 23:55