青い果実の実る頃には

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読書から学ぶもの ~「読み」の整理学~

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既に知っている内容を読んで「読んだ気」になっているあなた。本当の「読書」を始めてみませんか。



外山滋比古氏の人の「読み」に対する姿勢を独創かつ鋭い視点で書かれた本。ちくま文庫から出版されている。「知っている、共感できる読み物なら読む気になるが、わからないことが多いものは読む気になれない」という人が増え、出版側も本を商業的に読みやすい文体へと変えている世の中に待ったをかけた作品である。

本来、読書は登山と似通ったところがある。一度読んでも意味や心情が解らないことが多く、険しい山道を登ることと等しい。理解してやろうと、挫折してもまた挑戦し、葦編三絶、何度も読む。山も同じ。何度登っても飽きることはない。同じ山でも一度目と二度目じゃ見える世界も異なるものだ。
しかし、若い人たちの間で(いい大人もそうだが)、理解できないと放り出してしまう読者が増えた。現代人の思考として本を読む理由が「未知を知ること」「芸術的思考」から「疑問や不安からの解消や息抜き」「日常を脱するエンターテインメント」といった娯楽へとシフトした。ハウツー本やミステリー・ファンタジー小説の売れ行きが好調なのもそのためだろうと思う。気持ちは分からなくもない。時間に追われ、閉塞的な現代社会の中では「効率」と「おもしろさ」が最も好まれる。そうであるからして、本を一読するのはマシな方で、必要、共感できる文章だけを糧にし、「読んだ」という読者は少なくない。
この思考が社会に蔓延している。ひどくなると、自分の理解力の低さを棚に上げ、おもしろくないのは本がつまらないからだと一蹴する。出版社側も売れなくなると困るので工夫を凝らして解りやすい文へと変える。まるで山にロープウェーでも張り巡らせるかのように。ロープウェーで登ってきた読者も山道を登ってきた読者も、頂から見える景色は変わらないと思うかもしれない。だが、それは違う。「自力で登る」過程を経てきた者の見える世界は濃厚で、自分なりの二次的、独創的な思考力を得られる。山(本)の本当の姿を知ることができる。これからの教育において、子どもたちに「山を自力で登る姿勢」を身につけさせることは必要不可欠である。

ではどうすればよいのか、そもそも「読む」とは何だということをこの本には丁寧に書かれてある。
氏の言葉を借りて大まかに言うと、まず文章には既知を読むα読みと未知を読むβ読みがある。本当に本を「読む」のであれば、αからβへの読みの移行が必須だということだ。
それは、思うに「食」と似ている部分があるかもしれない。子どものときには甘いもの、はっきりした味付けのものが好きになりやすいが、大人になるにつれそれだけでは物足りなくなり、微妙な味付け、食感に挑戦し、理解できるようになってくる。野菜、肉、魚介類それぞれの苦み・渋味・食感を知り、好き嫌いがなくなっておいしく感じられるようになる。珈琲や酒の旨さを知り、飲めるようになる。「未知」を食べ、舌を肥やしそれぞれの食物のもつ「旨さ」を味わえるのは大人だ。
読書も一緒。初めは絵本などのフィクションや、現実のモノとコトバを繋げられる言葉、文を好み読んでいく。それが次第に社会を知り、友人や大人の考えに追いつけるように「未知」の言葉、文を「味のある本」、例えば古典や論語などの伝統的書物、現代的思考を書いた書物、純文学などを通して吸収していくようになる。
この過程が大事なのだが、好き嫌いをしたままズルズル大人になってしまい、子どもでも解る言葉でしか物事や自身を表現できない者が増えてきている。
難解な本、味のある本が読まれないと言語にも影響が出る。言葉は簡略化され、新しいものだともてはやされる。古い言葉は見向きもされなくなった。しかし、考えてみてほしい。新しい言葉もいずれ廃れる。「KY」も最近では聞かなくなったし、一昔前の「チョベリバ」などという言葉は死語である。死んだ言葉。逆に古い言葉は、いつまでたっても古いままなだけで、廃れも、死にもしない。銀行、内閣、演説、煙草(タバコ)、麦酒(ビール)・・・。外国から持ち込まれた文化を日本独自の言葉、漢字に変換していた時代。これらの言葉は今でも美しい輝きを放ってあり続けている。このような言葉を知り、味わえるために積極的に「未知」を「読む」ことに挑戦することを推奨する。

β読みができるようになるために氏が述べた方法は「論語の素読」などといった昔の教育を見直す方法だ。大変興味深いし、立ち戻ることは良い方法だと思う。
しかし、今の時代「読書」だけが「読み」だとは思わない。私は、「読書」の他に「映画」や「音楽」、「美術」が好きなのだが、それでもβ読みと同じ効果が期待できると思う。映画ならアクション、音楽なら元気や恋の歌などわかりやすいものではだめだ。モティーフが解りづらくメタファーが多い作品、感性が全く理解できないような作品に触れ、それでも自分なりに理解しようとする。解説をただ求めて納得するのではなく、自身の考えと照らし合わせて、同意したり、批判したり、疑問を持つ。要は「未知を感じ、受け止める姿勢」が大事なのだ。
自身の向上、あるいは子どもの教育を考えている人はぜひ読んで欲しい。目から鱗の良著である。

最後に、β読みができるとどういう風に物語を「読め」るのかを述べたい。
氏は昔ばなしの「もも太郎」を題材として挙げているので、私もそれに倣うことにする。
知っての通りだが、現存最古の物語である「竹取物語」という作品がある。
翁が竹を切ると、そこから小さくて可愛らしい女の子が出てくるのだが、これは媼の懐胎を表しているともとれるし、どこかの竹林から拾ってきたのだから別の村の女に産ませた子供を攫ってきたのかもしれない。五人の貴公子は男という生き物を語ったものかもしれないし、月に行くのは黄泉の国に行くことなのかもしれない。「読み」の想像力一つで物語の内容がガラリと姿を変える。他にもいろんな捉え方ができ、そのどれもが正解ではないのかもしれないが、β読みに正解はないのだ。一次的な文から二次的なものを自分の中に構築することができればそれでいいのだ。
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by komei115 | 2012-03-25 23:04 | Reading&Music