青い果実の実る頃には

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小説に魅せられて ~ 葡萄の生る季節には 二九

生まれて初めて親に罵声を浴びせ、胸ぐらを掴まれ、そして思い切り殴られた。
シャツの胸元の釦が二個引きちぎれ、残された糸が弱々しく縮れて伸びている。釦は何処に行ったのか、もう分からなかった。
幹斗は、震えながらもゆっくり起き上がると、無言で座敷を去ろうとした。ふらふらと歩いていると、鼻の奥からも熱を持った鮮血が垂れ、真っ白なシャツに赤い斑点が染みて滲んでいく。
背後から肩を怒らせたままの父が、
「出ていけ」
とだけ告げた。わかりきった言葉のはずなのに、父の放ったその一言はやけに現実味を帯びて突き刺さった。母は口元に手を押さえ、嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流していた。
幹斗は何も言わずに座敷を後にした。そして、二階の自室に戻ると故郷を去る準備を黙々と始める。血を流しながら、涙を流しながら。
急げ!急げ‼こんな町、一秒でも早く出て行ってやるんだ。さあ、早く‼
暫くして鼻血は止まったが、段々と顔の左側に熱が籠ってくる。頬が腫れ、左の視界が少し狭くなった気がする。口を動かすたびに上下の歯の間に内側の肉が挟まり、噛まないようにするのが大変だった。
必要最低限の物をバッグに詰め、トレーナーとジーパンに着替えると、部屋を見回した。二段ベッド、二つの学習机、本棚。18年もいたのに、何にもない部屋だと思った。
久しぶりに実秋の机の引出しを開けてみる。奥の方に真鍮の懐中時計があった。懐かしさに心臓が大きく音を打つ。
蓋はとれ、画面は削れたキズがついていて見づらくなっていた。
動いてない時計。動かなくなった時計。手にとって、ネジを回してみたが駄目だった。持ち主にしか動かせないのだろうか。
幹斗はポケットの中に懐中時計を忍ばせた。
部屋を出て、階段を駆け降り、スニーカーを引っ掛けて外に出た。
雨がぽつぽつと降り始めていた。しかし、気にせず駆けて行く。耳の中では雨の音がいつまでも消えない。
振り返ることはなかった。転びそうになりながら、逃げるように、逃れるように、ただひたすら走った。


まさか、またここに来ることになるなんてな。二度と戻ることはないと思っていたのに・・・
幹斗は記憶の旅をしながら、気付けば自分の左頬を摩っていた。一週間も腫れが引かなかったのに、今では完全に治り、いつの間にかザラザラと濃い不精髭まで生えるようになっている自分の頬に歳月を感じた。
ふと縁側の方を見つめる。すると、驚きのあまり息を呑んだ。窓は今もあの時のまま、蜘蛛の巣のような、葉脈のような罅が入ったままの状態だった。
なぜ買い替えてないのだろうか。
立ち上がり、近寄って窓にそっと手を触れてみる。柔らかく、脆く、痛々しく。強く押したら音を立てて割れてしまいそうな感触は、自分と同じような気がする。
足元では、15年前の幹斗が今も床に蹲っていた。
「あなた、食事の用意が出来たわよ」
幸恵が台所から顔を覗かせる。
「・・・ああ」
「その窓の罅、あなたが付けたの?」
「まあ、そんなところかな」
座敷を離れリビングの一席に腰を下ろした。テーブルの中央には笊が置いてあり、その上にほうとうが瑞々しく、艶やかに盛られている。手元の椀の中には大根や白菜、南瓜、長葱、椎茸などの具材が犇めき合って熱い汁に浸かっていた。そこから立ち昇る湯気は豊かな香りを放ち、腹の虫が鳴いて応えた。
「夏に食べるほうとうもあったんだね。『おざら』って言うんでしょ?私、知らなかったよ。何だかつけ麺みたいだね」
料理の後片付けをしながら幸恵が笑って話した。
幹斗は、箸でほうとうを掬って椀の中に落とし、いい按配になった温かい汁を頬張った。
それは、変わることのない懐かしい味だった。一体いつ母に作り方を習ったのだろうか。
片付けを終えた幸恵が対面の席に座り、幹斗の食べる姿を微笑んで見ていた。目が合うと、「美味しい?」と悪戯っぽく茶目っ気を含んだ笑顔で聞いてくる。幹斗は照れを隠しながら、憮然とした態度で返事をした。
その時、玄関のチャイムの音が鳴った。
「はーい」
幸恵は立ち上がり、エプロンを外しながら、
「きっと雅也さんね」
と言って嬉しそうに玄関へと向う。幹斗も食べるのを中断して彼女の後を追った。
「今タオル持って来ますから」
そう告げて目の前を横切る幸恵を見てから、玄関の方へと目を向ける。そこには、雨でひどく濡れた雅也の姿があった。
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by komei115 | 2012-03-30 22:01