青い果実の実る頃には

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小説に魅せられて ~ 葡萄の生る季節には 三二


 幹斗の目が覚めた時も、寝た時とほとんど同じ体勢だった。
 「おはよう。早いのね。ちゃんと眠れたかしら」
 声が掛けられ、見上げると幸恵が心配そうな顔で覗き込んでいる。
 夢は見なかった。ほとんど一瞬の出来事のように思えたが、不思議なことに久しぶりに寝たという感覚を味わっていた。
 「ああ、ちゃんと寝れたよ」
 「暑くない?」
 「うん」
 「そう、良かった。まだ時間あるし、もうしばらくこうしてる?」
 「幸恵がいいのなら」
 「ふふっ、いいわよ」
 幹斗は幸恵の腰に手を回すと、彼女を引き寄せて胸に自分の顔を押し付ける。子どもじみた行為に恥ずかしさはあったが、今はもう少しだけこのままでいたかった。
 幸恵から洩れる優しい息遣いが耳をくすぐる。雨は朝を迎える前に止んだようで、縁側に掛かった若干寸足らずのカーテンからは日差しが零れていた。
 しばらくして二人は起きだすと、幸恵は昨夜作っておいた朝食の準備に取り掛かり、幹斗は特にやることもなくリビングのソファに座ってテレビをつけた。
 可愛らしい顔立ちの女性キャスターが今日の運勢を伝えている。爽やかな笑顔が印象的なこの顔。以前、テレビ番組に出演したときに偶然局のロビーで見かけたことがあったが、今とは別人のような顔をしていたことを思い出す。彼女のひた向きな営業用の顔に同情した。
 「おはようさん」
 程なくして、雅也が首筋あたりを掻きながら、のそのそとリビングにやってきた。冬眠明けの熊とさほど変わらない姿に、幸恵が笑顔で話しかける。
 「おはようございます。昨夜は眠れましたか?」
 「おかげでぐっすり。いい朝餉の匂いだな。腹減った」
 「もう準備できるから」
 「ありがとう。顔洗ってくるよ」
 二人の会話があまりにも自然で、幹斗は羨ましくなると同時に不安になる。テレビから流れる自分の運勢が一位ということもどうでもよかった。荒々しくテレビを消し、立ち上がったもののやることがなく、リビングをうろうろと歩く。
 ふと、壁に掛けられた一枚の写真に目をやる。だいぶ古くなっていて、フレームは少し汚れていてる。近寄って手に取ると、後ろの壁の色がそこだけ鮮やかな白色に保たれていた。無理もない。30年近く同じ場所にかけてあったのだから。
 勝沼駅の菱山農協前に立てられた慈幣天羅(じべでら)不動尊の前で撮った家族写真。父清太郎の趣味で買ったカラーフィルムカメラで始めて撮った写真だ。ただでさえ、とぼけたようにピンボケし淡い仕上がりだったのに、長い年月光にさらされたからか今にも消えて無くなりそうなくらいまでに淡く、薄くなっている。母昌子の肩を抱き寄せる清太郎。母の前で行儀よく立ってる兄実秋と、その横で手を繋ぎ今にも地べたに座りこもうとしている幹斗。誰とまでは識別できるが、その表情までは読み取ることが難しい。この時の自分は一体どんな顔をしていたのだろうか。しばらく、写真から消えそうな家族の姿を見つめる。
 はっきりと記憶を刻んだはずの色も、時間が経つと全て滲んで忘れてしまうのだろうか。忘れていいのか。忘れるべきなのか。今の俺には、忘れることなんてできない
 三人で朝食を食べ、各々外に出る準備をしているときに家の電話が鳴った。幸恵が電話に出て、しばらくして駆け寄ってくる。
 「今の電話お義母さんからだったわ。さっき、お義父さんが目を覚ましたみたいなの。早く用意して行きましょう」
 「そうか、わかった。俺は車準備してくるから」
 雅也は急いで支度をし、家を飛び出していった。
 幹斗の胸に鋭い痛みが走る。呼吸が苦しく、目の前が暗くなり、気を抜いたらふらっと倒れそうになる程に足が震えだす。シャツの左胸あたりを掴み、必死に深呼吸を繰り返した。
 まただ。ようやく落ち着いてきたと思ったのに
 また、非日常の世界へと引きずり込まれ、それに怯えている弱い自分がいる。これまでの一時の安らぎが嘘のように崩れていく。今すぐ逃げたいと思った。
 ふと、後ろから抱きしめられ、「大丈夫。大丈夫だから」と声が掛けられる。
 「私がついてるから。私はどこにもいかないわよ。あなたの隣りにいる」
 幹斗が顔を上げて振り返ると、幸恵は彼に優しくキスをした。
 「だから、大丈夫」
 彼女の吸いこまれそうな瞳に自分の顔が映る。
 幸恵がいる。幸恵の中に俺がいる。だから・・・大丈夫
 気がつくと、幹斗は幸恵とともに雅也の車に乗って、病院へと向かっていた。
 隣に座っている幸恵は、ずっと手を繋いでいてくれている。そのぬくもりだけを感じていた。


 
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by komei115 | 2012-05-27 23:43