青い果実の実る頃には

komei115.exblog.jp

項目に分けて日々思ったこと、書きたいことを自由に書いてます。意見、批判するコメントは大歓迎です。個人的な問い合わせはこちらまで。koumeipart115@yahoo.co.jp

ブログトップ

雑文・散文・駄文 その31 表現の自由を考える

今回はとある事件をもとに、日本国憲法第21条の「表現の自由」について考えてみたい。

はじめに、日本国憲法第21条では

1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

と規定されているが、なぜこの「表現の自由」が大切なことなのか。
それは、まず私たちが「情報」について考えるときに前提として理解しておかなければならない(情報だけが表現ではないが)。新聞、テレビ、ラジオ、写真といった各々のメディアから流される情報は、事実に対して予め編集者や製作者のなんらかの評価や判断が加えられ、表現に加わった人の考え方や価値観が反映している。その表現する過程においての彼らの思想や価値観の自由は尊重されなければならないということだ。
では、なぜ尊重しなければならないか。例えば、テレビの放送があるとする。何分放送するか、どのような映像を流すか、反対の人の意見をどうするかなど、製作段階ですべて番組制作者の意見や価値観がそこには反映されることとなる。それに対し、そのような報道や主張を正しくないと考える人もいるかもしれない(というか必ずいる。全ての人が共感することはありえない)。だが、こういった「この番組内容は中立的でないから変更した方がいい」という反論者の意見もまた、ある特定の価値観に基づいたひとつの主観的意見にすぎないということになる。

問題は、このように意見が対立したときに、誰がどのようにその是非を決めるのかということだ。もし、国や政治家が「この内容は偏っていてよくないから内容を変更すべきだ」ということを一方的にメディアに押しつけることができるとしたらどうなるだろうか。それでは国や政治家の気に入った番組や記事しか流されなくなってしまう。また、「この記事は国にとって不利だから放送してはならない」と放送内容を検閲し、中止させるようなことがあったらどうなるだろうか。それでは、私たち国民は真実について知ることができなくなる。
中国などは未だに検閲などは厳しく表現の自由はごくごく限られているが、日本では憲法によってそれらが保障されている。誰もが自由に発言でき、表現し、知ることができる。もちろん、それによって問題は増えるが(プライバシー問題等)、それでもこの憲法によって保障された環境は大切に守っていく必要があろう。実際に自由に発言できない環境は窮屈極まりない。

さて、本題に入ろう。
最近表現の自由に関する騒動が起きた。今月26日から東京・新宿で開催予定だった元朝鮮人従軍慰安婦に関する写真展をめぐり、会場を運営するニコンが中止を決めた問題で、東京地裁は22日にこの写真展のために会場を使用させるようにニコン側に命じる仮処分決定を下し、予定通り26日から開催を始めた。ニコンは意義を申し立てており、意義が認められれば7月9日の予定を早めてでも中止すると表明している。
仮処分を申し立てていたのは、写真展を企画していた名古屋市在住の韓国人写真家安世鴻(アンセホン)さん(41)。昨年12月に会場の使用を申し込み、写真家ら5人による選考を経て、今月26~7月9日に新宿のニコンサロンで開くことが決まった。しかし、ニコンは5月22日に写真展の中止を安さんに伝えた。
 ニコン側の主張はこのサロンが「写真文化の向上を目的」としており、「政治性がないことが応募条件」ということで中止の正当性があるとのこと。それに対し、決定は「そのような条件は明示されていない』とした上で、「今回の写真展は一定の政治性を持つが、写真文化の向上と言う目的と共存しうる」と判断し、使用契約の解除はできないと結論づけた。

ここで、疑問に思う人もいるかもしれない。「憲法って国と個人との問題でのみ機能するんじゃないの?」と。確かに憲法の本来の機能としては、その国家を設置した国民自身が自らの国家権力を監督するためのもので、憲法が適用される典型的場面は「私人対国家」である。しかし、「私人」相互において社会的格差が生じている現代においては、人権侵害が生じる場面は対国家には限られず、私人相互の関係(たとえば、巨大企業対労働者の関係など)においてもその適用が問題となる。これは憲法の「私人間効力」と呼ばれており、直接適応説、間接適応説などと学説は分かれている。

会場の使用は、憲法が21条で保障する「表現の自由」や「集会の自由」に密接に関っており、トラブルが絶えない。最近では2007年に日教組の集会使用を拒否したプリンスホテルに対し使用させるように命じる仮処分決定や、朝鮮総連が日比谷公園の音楽堂の使用許可を東京都に取り消された問題でも、東京地裁は使用を認める決定を出した。
いずれも、使用を拒んだ側の主張を認めない司法判断が相次いでいるが、これは「表現の自由」に配慮した当たり前の判断だと言ってよい。ニコン側は決定に従うべきであり、写真家の自由な表現を発信する場を守る側として本来の姿に立ち戻って欲しい。
それにしても、なぜニコンは写真を愛する人々を裏切ってでも外部の圧力に屈したのであろうか。当時、ネット上に「歴史の捏造に加担する売国行為」などと批判する内容の投稿が相次ぎ、ニコンにも抗議電話が寄せられていた。ニコン側は明らかにしていないが、複数の人々がネットへの書き込みや抗議活動をしたとみられる。そのうちの一団体は2010年に製作された和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米映画「ザ・コーヴ」の国内上映に抗議し、中止に追い込んだグループの一つだ。
彼らは「売国行為」で国益に反すると訴えている。自分たちが信じることができないものを公に発表されることを嫌い、憎むその気持ちは解らなくもない。しかし、表現の自由は絶対的に尊重されなければならない。国の敵か味方か、右か左かの稚拙な二元論で判断し、憲法で保障されてある自由をも否定してまで自分たちの信じる正義を振りかざすのは見苦しい。愛国心があるのなら、まずは憲法を最大限に尊重すべきではないだろうか。
提示された表現が真実かどうかを判断し、取捨選択するのは私たち情報消費者側の目だ。提示された表現に対し、表現し返して消費者の判断を仰ぐことはフェアであり妥当であるが、判断する材料そのものを不当に奪う、圧力をかける行為はあってはならない。

私たち全ての人類が互いに解り合えることはない。だからこそ自分の思いや考えを人に知ってもらったり、また、人の発表するものを見たり聴いたりすることで、より幸せに、豊かになることができる。例えば、飲みの席でも「私は~についてこう思うんだ」と熱く語って、それが他人から「そうだよね、自分も同感だよ」と言われたら嬉しくて、気持ち良くて、お酒がまわって、さらに飲み明かそうと思うことなどザラにあろう。何かを表現したい、知りたいという欲求は、もっとも人間らしい行為であり、私たち人間の本質に関わるものである。「その人」らしさという個性でもあり、その意味では人間の尊厳に関わるものでもある。
この「表現の自由」が戦争という負の歴史を通し、そこから先人たちの手によってつくられた憲法の中に規定されていることを私たち現代人は光栄に思わなければならない。表現できる喜びを、知る喜びを大切にし、日々の生活を彩っていきたい。
[PR]
by komei115 | 2012-07-03 23:03 | Miscellany